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デニス・ホールトン
アメリカの野球選手 (1979 - ) ウィキペディアから
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デニス・ショーン・ホールトン・ジュニア(Dennis Sean "D.J." Houlton Jr.、1979年8月12日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州フラートン出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
ロサンゼルス・ドジャース、福岡ソフトバンクホークス時代は「D.J.ホールトン」、読売ジャイアンツ時代は「デニス・ホールトン」という登録名であった。
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経歴
要約
視点
アマチュア時代
1997年のMLBドラフト55巡目でシアトル・マリナーズに指名されるが、契約せずパシフィック大学に進学。在学中の2001年5月11日、対カリフォルニア大学リバーサイド校戦でノーヒットノーランを達成した。
アストロズ・ドジャース時代
同年のMLBドラフト11巡目でヒューストン・アストロズに指名され、6月9日に契約した。2002年までは1A、2003年から2004年は2Aで過ごした後に、12月13日のルール5ドラフトでロサンゼルス・ドジャースに指名され、移籍した。
2005年は初のメジャー昇格を果たし、35試合登板(19試合先発)で6勝9敗、防御率5.16という成績を残した。オフにGMのポール・デポデスタ、監督のジム・トレーシーが解任され首脳陣が一新された2006年はメジャーに昇格できず、3Aでも9勝11敗、防御率5.60と不振だった。2007年はシーズン前半を3Aで過ごしたが、7月にメジャーに昇格。18試合にリリーフ登板して0勝2敗、防御率4.18だった。
シーズン終了後、福岡ソフトバンクホークスが緊急補強リストの筆頭候補に上げ、ドジャースからソフトバンクへ契約が譲渡された。
ソフトバンク時代
2008年1月31日、ソフトバンクと契約合意[1]。背番号は00、登録名は「D・J・ホールトン」。
2008年はキャンプ中の故障で出遅れるも、4月11日の対埼玉西武ライオンズ戦で中継ぎとして初登板を果たすと、三者連続三振で切り抜けた。その後、小椋真介・久米勇紀と共にリリーフ陣の一角として活躍するが、やがて打ち込まれる試合が増えていき、一度は二軍に降格。後半戦から先発に配置転換されると、安定した投球で北京五輪によって離脱した和田毅・杉内俊哉の穴を埋める救世主的存在に成長した。しかし、徐々に対戦相手に研究されたことで打ち込まれたり、好投しても打線の援護が無く勝ち星が伸び悩んだ。
背番号を54に変更した2009年は、開幕から先発ローテーションに入り、杉内と並んで左右の両輪として活躍。9月5日の対西武戦で10勝目を挙げた。この年はリーグ優勝を果たした北海道日本ハムファイターズ戦に強く、6試合の登板で4勝を挙げた。
2010年5月19日の対阪神タイガース戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で右脚を痛め、21日に登録抹消された。7月19日の対西武戦で勝利を挙げたが、9月1日に再び抹消された。10月16日のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第3戦(対千葉ロッテマリーンズ戦)で好投して勝利を挙げたが、同年オフに球団から大幅減俸を提示され、残留交渉が難航したことにより保留選手名簿から外れ[2]、12月2日に自由契約選手として公示された[3]。その後も交渉が続けられた結果、ホールトンが減俸を受け入れて残留することが決まった[4]。1月14日に再契約[5]。
2011年は開幕から安定した投球を見せ、4月20日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(北九州市民球場)でシーズン初勝利。4月27日の対日本ハム戦では自身初の完封勝利を挙げたほか、武田勝の対ソフトバンク戦の連勝を6で止めた。7月12日の対楽天戦で2年ぶりとなる10勝目を挙げた。9月13日の対西武戦(ヤフードーム)で15勝目を記録。最終的に19勝を挙げ、田中将大と並び最多勝のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献した[6]。この年に行われたクライマックスシリーズファイナルステージ(対西武)は、ホールトンが先発登板する前に3連勝(1勝のアドバンテージを含む4勝0敗)したことにより登板機会がなかった。11月16日、日本シリーズ第4戦に先発し、5回を投げて勝利投手となり、日本一に貢献[6]。オフに(2010年オフと同様に)残留交渉が難航し、保留選手名簿から外れ、自由契約となった[7]。
巨人時代
2011年12月16日、読売ジャイアンツと2年総額500万ドルでの契約合意が発表された。背番号はソフトバンク時代と同じ54[8]、巨人での登録名は「デニス・ホールトン」となった。
2012年は8月11日の東京ヤクルトスワローズ戦で、2011年6月15日のオリックス・バファローズのアルフレッド・フィガロ以来、自身初&この年12球団初の投手でソロホームランを放った。シーズン序盤は勝ち負けを交互に繰り返す等不安定で、開幕ローテションに加わりながら[9]移籍後初勝利は4試合目の先発だった4月27日の横浜DeNAベイスターズ戦まで持ち越された[10]。交流戦を境に調子を取り戻し、7月8日の阪神戦(東京ドーム)から9月8日のヤクルト戦(神宮)まで6連勝を記録[11]。最終的には12勝8敗・防御率2.45と、セ・リーグでも十分な結果を残し日本一に貢献した[6]。また、交流戦優勝決定戦となった6月16日の対楽天戦(Kスタ宮城)でも勝利投手となった。ナイトゲームでは6勝7敗、防御率3.54とやや打ち込まれたものの、デーゲームには滅法強く6勝1敗、防御率0.84と抜群の相性を誇った。
2013年も開幕ローテーション入り。4月5日の中日ドラゴンズ戦(東京ドーム)で移籍後初完投勝利を挙げるも、前年同様序盤は調子が上がらず勝ち負けを繰り返す登板が続く。そのため中盤に一度2軍に降格し、2軍で調整する日々が続いた。1軍復帰後は8月下旬から10月上旬にかけて5連勝し、最終的には9勝4敗と3年連続の2桁勝利は逃したものの、リーグ優勝に貢献[6]。しかし、その後読売ジャイアンツは11月30日退団を発表した。
起亜時代
2014年1月2日、韓国プロ野球・起亜タイガースと契約[12]。同年の起亜の開幕投手も務め5勝をあげたが、内容が徐々に悪化したため7月24日ウェーバー公示され退団した。
その後、現役を引退した。
引退後
2015年12月28日、NPBのオリックス・バファローズがホールトンを駐米スカウトとして採用すると発表した。2016年1月1日付で着任し、アメリカ西海岸を中心に担当する[13]。
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人物
非常に手のひらが大きく、30cmを超える[14]。来日以降、箸の使い方に戸惑っていると語っている[15]。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
- 最多勝利:1回 (2011年)
記録
- NPB投手記録
- 初登板:2008年4月11日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、8回表に3番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回表に赤田将吾から空振り三振
- 初セーブ:2008年4月12日、対埼玉西武ライオンズ5回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、8回表に4番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初勝利:2008年4月29日、対埼玉西武ライオンズ7回戦(西武ドーム)、11回裏に5番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初先発:2008年7月2日、対オリックス・バファローズ10回戦(京セラドーム大阪)、5回1/3を4失点
- 初先発勝利:2008年7月26日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、7回1失点
- 初完投勝利:2009年6月8日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
- 初完封勝利:2011年4月27日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、5奪三振1四球
- NPB打撃記録
- 初安打・初打点:2012年4月26日、対横浜DeNAベイスターズ3回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、3回裏に阿斗里から左前適時打
- 初本塁打:2012年8月11日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(東京ドーム)、2回裏に館山昌平から左越ソロ
背番号
- 27 (2005年)
- 54 (2007年、2009年 - 2013年)
- 00 (2008年)
- 58 (2014年)
脚注
関連項目
外部リンク
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