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トニー・グウィン・ジュニア

アメリカ合衆国の野球選手 (1982-) ウィキペディアから

トニー・グウィン・ジュニア
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アンソニー・キース・グウィン・ジュニアAnthony Keith Gwynn Jr., 1982年10月4日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロングビーチ出身の元プロ野球選手外野手)。右投左打。

概要 基本情報, 国籍 ...

安打製造機」の異名をとったトニー・グウィンの息子である。

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経歴

要約
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プロ入り前

高校時代の2000年MLBドラフト33巡目(全体1000位)でアトランタ・ブレーブスから指名を受けたが、サンディエゴ州立大学へ進学した。

プロ入りとブルワーズ時代

2003年、再びMLBドラフト2巡目(全体39位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名され、プロ入り。

2006年7月15日にメジャーデビュー。7月19日に初安打となる二塁打を放った。奇しくも24年前の同じ日に父親であるトニー・グウィンも初安打となる二塁打を放っている。結局、この年はスタメン確保はならず、控え外野手として32試合に出場し、打率.260を記録した。

2007年も控え外野手としての出場が続いたが、9月29日サンディエゴ・パドレス戦で、1点ビハインドで迎えた9回裏にパドレスの守護神トレバー・ホフマン投手から同点の適時三塁打を放ち、チームのサヨナラ勝ちに貢献した。この敗戦によってパドレスは西地区優勝を逃し、プレーオフ進出も叶わなかった。パドレスは父親が長年所属していたチームであり、パドレスの監督であるバド・ブラックは「息子に打たれるとは、まったく皮肉だよ」と述べていた。

パドレス時代

2009年5月21日、父が在籍していたパドレスにトレードで移籍。各部門で自己ベストの成績を残すも、翌2010年は極度の打撃不振に陥り、出番が減少した。なお、余談ではあるが、この年の9月24日シンシナティ・レッズ戦で、アロルディス・チャップマンが投じた当時史上最速105mph(169km/h)の直球に対峙した。オフの12月2日FAとなった。

ドジャース時代

2010年12月11日ロサンゼルス・ドジャースと67万5000ドルの1年契約を結んだ[2][3]

2011年は、自己最多の136試合に出場。打率.256・2本塁打・22打点・22盗塁をマークし、オフの12月12日にドジャースと総額200万ドルの2年契約に合意した[4][5]

2012年は103試合に出場して打率.232・17打点・13盗塁の成績を残した。

2013年は開幕メンバーに名を連ねることさえできず、傘下のAAA級アルバカーキ・アイソトープスでのスタートを余儀なくされた。このシーズンは結局最後までメジャーに昇格できず11月5日にFAとなった。

フィリーズ時代

2013年12月19日フィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約を結んだ[6]

2014年3月29日にメジャー契約を結んだ[7]。開幕後は69試合に出場したが、打率.163・3打点・2盗塁と結果を残せず、7月21日DFAとなった[8]7月28日に放出されたが[9]8月3日にマイナー契約で残留して傘下のAAA級リーハイバレー・アイアンピッグスへ配属された。9月にセプテンバーコールアップで再度昇格した。10月9日にFAとなった[10]

ナショナルズ傘下時代

2015年3月2日ワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだ。シーズンでは傘下のAAA級シラキュース・チーフスでプレーし、89試合に出場して打率.255・1本塁打・27打点・10盗塁の成績を残した。オフの11月6日にFAとなった[10]

引退後

2016年2月25日にドジャースの放送チームでの仕事をすることが明らかになった[11]2017年シーズンからはパドレスへ移った[12]

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 22(2006年 - 2008年)
  • 18(2009年 - 2010年)
  • 10(2011年 - 2012年)
  • 19(2014年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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