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ビニー・カスティーヤ
メキシコの野球選手 (1967 - ) ウィキペディアから
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ビニシオ・カスティーヤ・ソリア(Vinicio Castilla Soria、1967年7月4日 - )は、メキシコ・オアハカ州オアハカ出身の元プロ野球選手(三塁手)。
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経歴
1987年から1989年にかけてはリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルに所属した。
1990年にアトランタ・ブレーブスに入団。1991年9月1日に、メジャーデビューを果たす。
1992年シーズンオフ、拡張ドラフトで新生コロラド・ロッキーズの指名を受け、ロッキーズに移籍。
1995年にはレギュラーに定着し、35本塁打を記録してチームの球団創設3年目にして初のワイルドカードでのディビジョンシリーズ進出に貢献。
1996年には40本塁打、113打点を記録。チームメイトのアンドレス・ガララーガ、エリス・バークスも40本塁打を記録し、MLB史上2チーム目の「同一シーズンに40本塁打3人」を記録。さらにダンテ・ビシェットも含めて4人が100打点を記録し、こちらはMLB史上3チーム目であった。
1998年には全162試合に出場し、いずれも自己最多となる46本塁打、144打点を記録。
1999年オフに2選手との交換トレードでタンパベイ・デビルレイズに移籍するが、以後は不振や故障も相まって移籍を繰り返す。
2001年途中にヒューストン・アストロズに移籍。
2002年にはブレーブスに復帰し、当時の正三塁手だったチッパー・ジョーンズをレフトに追いやり三塁を守った(尤もジョーンズの拙守も一因だった)。2003年まで所属する。
2004年にはロッキーズに復帰。かつての打棒を取り戻し、同年7月7日に、ホルヘ・オータが保持していたメキシコ人のMLB安打記録(1620)を更新。この年には35本塁打、131打点を記録し、36歳で初の打撃タイトルである打点王を獲得するも、
2005年にはワシントン・ナショナルズに移籍。
2006年開幕前の3月に第1回WBCのメキシコ代表に選出された[1]。同大会ではチームキャプテンを務めた。
シーズンではサンディエゴ・パドレスで始めたが、途中で現役引退を表明、自分の野球人生の中で一番いい思い出を持っているロッキーズで引退したいという意思を明かした。それで、シーズン途中にロッキーズにトレードされ、同年9月28日に本拠地クアーズ・フィールドでの試合に代打で登場して適時打を放ったのが最後の打席となった。シーズン終了後、願い通りロッキーズの一員として引退した。 チームの打線を支えた功労者として、フランチャイズ・プレイヤー並みの扱いを受けた。そして、引退後は球団からアドバイザーの役職が用意された。
母国メキシコでは英雄的存在で、2008年にはリーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ(メキシコで行われるウィンターリーグ)のナランヘロス・デ・エルモシージョ(Naranjeros de Hermosillo、HER)で監督兼任選手を務める。
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選手としての特徴
強打が持ち味だが、特にロッキーズでの活躍が目立つ選手であった。それはロッキーズの本拠地クアーズ・フィールドが典型的な打者有利な球場であり、その特性を十分に利用したバッティングをしていたからと見られる。実際、他球団ではロッキーズで上げた成績ほどは上げられずに終わっている。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
タイトル
- 打点王:1回(2004年)
表彰
- シルバースラッガー賞(三塁手部門):3回(1995年、1997年、1998年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:2回(1995年、1998年)
背番号
- 45(1991年 - 1992年)
- 9(1993年 - 2001年途中、2004年 - 2006年)
- 19(2001年途中 - 2003年)
代表歴
監督歴
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脚注
関連項目
外部リンク
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