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マイク・スウィーニー
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マイケル・ジョン・スウィーニー(Michael John "Mike" Sweeney, 1973年7月22日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ出身の元MLBのプロ野球選手(指名打者、一塁手、捕手)。
デビューから2007年までロイヤルズ一筋で、チームの看板選手として活躍した。
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略歴
要約
視点
高校時代から強打の捕手として活躍し、1991年、ドラフト10巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに捕手として入団。
1995年9月14日にメジャーデビュー。結局その年は4試合のみの出場だったが、シーズン最終戦で初安打を放っている。
1996年はマイナーリーグからのスタートとなったが、オールスター明けに再びメジャーに昇格。7月18日に捕手として初のスタメン出場を果たし、8月12日のマリナーズ戦でジェイミー・モイヤーから初本塁打を放った。最終的に打率.279、4本塁打、24打点とまずまずの成績を残した。
1997年は開幕ロースターから外れ、メジャーとマイナーを往復する時期が続いた。
1998年までは何回かトレードされそうにもなったが[1]、1999年5月に正一塁手のジェフ・キングが突如引退を表明したため、その後任として一塁手へコンバートされた。守備の負担が軽くなったことで打撃成績も上昇し、7月18日から8月13日にかけて球団歴代3位の25試合連続ヒットを記録。最終的に打率.322、22本塁打、102打点とチームトップの成績を残し、チームの中心選手となった。
2000年も好調を維持し、206安打、打率.333、29本塁打、球団新記録となる144打点(リーグ2位)といずれも前年以上の成績を残すと共に、その年のオールスターにも初選出された。
2001年は6月に打率.392、11本塁打、29打点を記録し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスに初選出された。8月10日のデトロイト・タイガース戦ではマウンドのジェフ・ウィーバーから吐きかけられた言葉に激怒してウィーバーに殴りかかる乱闘騒ぎを起こし、自身初の退場処分を受けている。
2002年は自己最高となる打率.340(リーグ2位)を記録。シーズン終了間際まで首位打者を争っていたが、最後の4試合で16打数2安打に終わり、マニー・ラミレス(.349)にタイトルを奪われた。
2003年まで4年連続でオールスターにも選出された。しかしこの頃から腰の故障に悩まされ、シーズンを通しての出場が困難となった。それでも2003年から2005年にかけては打率.300前後、20本塁打前後、80打点前後の成績を残している。
2006年は開幕直後から故障に悩まされ、5月初旬から8月初旬までの3カ月ほど戦線を離れた。復帰後は調子を取り戻したが、終わってみれば60試合の出場で打率.258、8本塁打、33打点という成績だった。2007年もシーズン半ばで故障し、打率.260、7本塁打、38打点と満足のいく成績を残せなかった。
2008年はオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、招待選手としてキャンプに参加したが、3月24日に正式契約しロースター枠に入った。指名打者として左打ちのジャック・カストと併用される予定であった。5月19日に左膝痛のためDL入り。左膝の軟骨に穴を開ける手術を勧められたものの、復帰まで約半年間かかるために拒否。そのため、内視鏡手術を受ける。9月4日に戦線復帰を果たした。しかし、同年9月9日に戦力外通告を受けた。9月14日には、キャットフィッシュ・ハンター賞を受賞。
2009年1月29日、アスレチックス時代のベンチコーチだったドン・ワカマツが監督に就任したシアトル・マリナーズとマイナー契約。開幕ロースター入りし、5月3日のアスレチックス戦で通算200号本塁打を達成した。
2011年3月25日、現役引退を表明。翌3月26日に古巣ロイヤルズと1日契約を結び、引退セレモニーを行った。また、3月31日のシーズン開幕戦では始球式を務めた。(この時の捕手は同じくロイヤルズの看板選手だったジョージ・ブレット)
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人物
スペイン語が堪能で、中米出身の選手ともよくコミュニケーションをとる。また、一塁の守備についている際にも、相手の選手とよく談笑している[2]。 2003・2004年にはスポーティングニューズ誌からグッドガイに選出されるなど“良い人”として知られる。ロイヤルズ時代にはキャプテンも務めた。敬虔なカトリック教徒であり、CACの役員も務めている[3]。
2002年に往年のヤンキースの三塁手グレイグ・ネトルズの弟で南海ホークスでもプレー経験がある元メジャー選手ジム・ネトルズの娘と結婚し、2男1女を授かっている[4]。また、妻と共にスウィーニー家族財団で様々な慈善活動を行っている。
2007年シーズン最終戦の前日である9月29日、彼は地元紙カンザスシティ・スター紙に、地元ファン、チーム、選手達への感謝をこめた全面広告を載せた[1]。翌日30日の対クリーブランド・インディアンス戦には、久々に一塁を守り4番で出場。1回の第一打席をファンはスタンディングオベーションでむかえた[1]。第二打席でもプレーが遅れるほど鳴り止まず、7回に退いた際にも3回目のスタンディングオベーションが起こり、彼はダッグアウトから出てそれに応えた。最後のロイヤルズ選手としての試合は3打数ノーヒットであった[5]。
なお、パドレスなどでプレーしたマーク・スウィーニーとは縁戚関係にない。
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選手としての特徴
積極的で初球打ちを好んだ。選球眼が良く、外角の変化球に惑わされて三振することは少なかった。勝負強いバッティングと右方向への強い打球が特徴で、内角をさばくのも上手かった。健康であれば手ごわい打者であったが、背中の怪我に悩まされていた[6][7]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 2010年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル・表彰
- アメリカンリーグ月間MVP:1回(2001年6月)
- アメリカンリーグ週間MVP:4回(1999年6月28日 - 7月4日、2001年6月25日 - 7月1日、2002年5月20日 - 5月26日、2002年6月24日 - 6月30日)
- ハッチ賞(2007年)
- カンザスシティ・ロイヤルズ球団MVP:3回(2002年、2002年、2005年)
- オークランド・アスレチックスキャット・フィッシュ・ハンター賞(2008年)
- プレイヤーズ・チョイス・アワード
- マービン・ミラー・マン・オブ・ザ・イヤー(2005年)
カンザスシティ・ロイヤルズ球団記録
- シーズン打点:144(2000年)
- シーズン犠飛:13(2000年)※タイ記録
- 1試合打点数:7(2004年7月22日)※タイ記録
- 1試合敬遠数:3(2004年5月9日)※タイ記録
その他の記録
- MLBオールスターゲーム選出 5回:2000年 - 2003年、2005年
- 最多死球 1回:2000年
- 最多補殺(一塁手部門) 1回:2002年
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参考資料
外部リンク
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