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ジョージ・ブレット
アメリカの野球選手 (1953 - ) ウィキペディアから
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ジョージ・ハワード・ブレット(George Howard Brett, 1953年5月15日 - )は、アメリカ合衆国ウェストバージニア州グレンデール出身の元プロ野球選手(三塁手、一塁手)。右投左打。MLBのカンザスシティ・ロイヤルズで球団副社長を務めている。愛称はゴージャス・ジョージ(Gorgeous George)[1]。
選手時代はカンザスシティ・ロイヤルズ一筋で21シーズン過ごしたフランチャイズ・プレイヤーである。「真のアメリカン・ヒーロー」と呼ばれたノーラン・ライアンとともに1970年代から1990年代にかけて球界を背負うスターであり続けた[2]。
5歳上の実兄ケン・ブレットも元プロ野球選手。1981年には兄弟でロイヤルズに在籍した。
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経歴
要約
視点
現役時代

1971年のMLBドラフトでカンザスシティ・ロイヤルズから2巡目(全体29位)に指名を受け入団。
1973年8月2日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビュー。
1974年は5月にメジャーに昇格し、5月8日のテキサス・レンジャーズ戦でファーガソン・ジェンキンスからメジャー初本塁打[3]。後半戦で打率.317[4]と調子を上げ、打率.282、2本塁打の成績でルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では3位に入った[5]。
1975年は打率.308、11本塁打、89打点、共にリーグトップの195安打、13三塁打を記録。
1976年は前半戦で打率.365[6]を記録し、オールスターゲームに初選出され先発出場を果たした[7]。いずれもリーグトップの打率.333、215安打、14三塁打の成績で首位打者のタイトルを獲得し、チームは初の地区優勝。ニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第5戦の8回に同点3点本塁打を放つ[8]など打率.444と活躍するが、チームは2勝3敗で敗退。MVPの投票ではサーマン・マンソンに次ぐ2位に入った[9]。
1977年は打率.312、22本塁打、88打点、13三塁打を記録し、チームは地区連覇。ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.300を記録するが、チームは2勝3敗で敗退。
1978年は128試合の出場ながらリーグトップの45二塁打を記録し、チームは地区3連覇を果たす。3年連続の対戦となったヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第3戦でキャットフィッシュ・ハンターから初回先頭打者本塁打を含む3打席連続本塁打を放つ[10]がチームは逆転負けを喫し、1勝3敗でまたも敗退した。
1979年は5月28日のボルチモア・オリオールズ戦でサイクル安打を達成し、延長16回にサヨナラ本塁打を放った[11]。打率.329、23本塁打、107打点、共にリーグトップの212安打、20三塁打の好成績で20-20-20も達成したが、チームは地区2位で4連覇を逃した。MVPの投票では3位[12]。
1980年は6月から故障で1ヶ月離脱するが、復帰後の7月は打率.494、8月は.430[13]と絶好調で、この間7月18日から30試合連続安打を記録[14]。8月26日のミルウォーキー・ブルワーズ戦では5安打を記録して.407まで上昇[15]するが、9月に右腕の腱を痛めて9試合に欠場[14]。しかし最終的には打率.390と高打率ながらも4割を切ってしまった[16]。しかし、打率もさることながら24本塁打、118打点、いずれもリーグトップの出塁率.454、長打率.664、OPS1.118の好成績で2度目の首位打者を獲得し、チームの2年ぶりの地区優勝に大きく貢献。4度目の対戦となったヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2本塁打・4打点と活躍、第3戦では1点ビハインドの7回にリッチ・ゴセージから特大の逆転3ランを放ち、チームは3連勝で悲願のリーグ初優勝を果たす。フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは、痔の手術を終えてから5時間後の第3戦で本塁打を放つ[1]など打率.375を記録するが、チームは2勝4敗で敗退した。オフに初のMVP[17]、同年から制定されたシルバースラッガー賞を受賞した。
1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮されたこともあって89試合の出場だったが、打率.314を記録。同年は前後期制の変則日程となり、チームは後期優勝。オークランド・アスレティックスとのディビジョンシリーズでは打率.167に終わり、チームは3連敗で敗退した。
1983年は4月20日のデトロイト・タイガース戦で9回の逆転2点本塁打を含む3本塁打、7打点[18]を記録するなど4月は打率.460を記録。7月24日のヤンキース戦では有名なパインタール事件が発生する(後述)。途中故障もあったものの打率.310、25本塁打、93打点、リーグトップの長打率.563を記録した。1984年は開幕に間に合わず、5月18日に復帰[19]。104試合の出場で打率.284、13本塁打と不本意な成績だったが、チームは4年ぶりの地区優勝。タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.231と振るわず、チームは3連敗で敗退。
1985年は前半戦で打率.358、後半戦で18本塁打を記録し[20]、打率.335、112打点、キャリアハイの30本塁打、103四球、リーグトップの長打率.585、OPS1.022の好成績でチームは地区連覇。トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第3戦で2本塁打を含む4安打、3打点[21]を挙げるなど打率.348・3本塁打を記録。チームは1勝3敗から3連勝で5年ぶりのリーグ優勝を果たし、シリーズMVPを受賞。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは本塁打こそ無かったが打率.370を記録。チームは1勝3敗と追い込まれたが、第6戦の「世紀の誤審」もあってタイに戻し、第7戦で勝利し初のワールドチャンピオンに輝いた。MVPの投票ではドン・マッティングリーに次ぐ2位に入り[22]、2度目のシルバースラッガー賞、キャリア唯一のゴールドグラブ賞を受賞した。
1988年は前半戦で打率.329、13本塁打を記録し[23]、13年連続となるオールスターゲームに選出される。打率.306、24本塁打、103打点の成績で3度目のシルバースラッガー賞を受賞。
1990年は前半戦は打率.267、2本塁打に留まる[24]が、7月25日のブルージェイズ戦で2度目のサイクル安打を達成[25]するなど後半戦で打率.388、12本塁打、58打点[24]と調子を上げ、打率.329、リーグトップの45二塁打を記録して3度目の首位打者を獲得。3つのディケイド(1970年代・80年代・90年代)での首位打者獲得は史上唯一である。
1992年9月30日のカリフォルニア・エンゼルス戦で通算3000本安打を記録[26]。
1993年5月13日のクリーブランド・インディアンス戦で通算300本塁打を達成[3]。同年限りで現役を引退した。ロイヤルズ一筋でプレイしたフランチャイズ・プレイヤーであり、通算試合数・打数・得点・安打・二塁打・三塁打・本塁打・打点・四球の各部門で球団記録を保持している[27]。
引退後
1994年4月7日に背番号『5』が球団の永久欠番に指定された。
2013年5月30日、不振にあえぐロイヤルズの打撃陣を救うため、ジャック・マルーフに代わりブレット球団副社長が自ら打撃コーチに就任[28]、永久欠番になっている背番号5が復活した[29]。
2014年10月22日、29年ぶりにプレーオフに進出したロイヤルズの、本拠地カウフマン・スタジアムで行われたワールドシリーズの第2戦の試合前の始球式を務めた。

カンザスシティ・ロイヤルズの永久欠番に1994年指定。
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人物
パインタール事件
→詳細は「パインタール事件」を参照
1983年7月24日、敵地でのヤンキース戦で事件は起こった。3-4とロイヤルズ1点ビハインドで迎えた9回表、2死から安打で出塁したところでヤンキースはクローザーのリッチ・ゴセージ(後ダイエー)をマウンドに送る。この場面でブレットが打席に立ち、逆転の2点本塁打を放った[30]。
ここでヤンキース監督のビリー・マーチンが、ブレットのバットに塗られた松ヤニ(パインタール)の範囲がルールで認められた上限の18インチを超えていると抗議した。球審ティム・マクレランドがこの抗議を認め、違反バットを使用したとしてブレットにアウトを宣告し、ヤンキースの勝利で試合終了となった。マーチンは以前からブレットのバットが違反となる可能性を知っていてそのことを持ち出す機会を窺っており、試合の勝敗に直結するこの場面で指摘したのだった。
ロイヤルズはこの裁定についてアメリカンリーグに提訴した。リーグ会長のリー・マクフェイルは、ブレットがルールの精神を犯したわけではないとしてブレットの本塁打を有効と認め、本塁打直後の5-4の9回表2死から試合を再開するようにと命じた。25日後の8月18日に行われた試合の残りは10分足らずで終了してロイヤルズが勝利し、騒動は終結した。
ブレットは後日談として、「痔の手術を受けた1980年のワールドシリーズ以降は痔に関するヤジに悩んでいたが、この事件後は痔から松ヤニのイメージに変わったので今ではマーチンに感謝している」と述べている[31]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 内野守備
- 外野守備
- 各年度の太字はリーグ最高
- 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞
タイトル
表彰
- シーズンMVP:1回(1980年)
- シルバースラッガー賞:3回
- ゴールドグラブ賞(三塁手部門):1回(1985年)
- アメリカ野球殿堂(1999年:有資格1年目、得票率98.2%)
- リーグチャンピオンシップシリーズMVP:1回(1985年)
- ハッチ賞:1回(1980年)
- ルー・ゲーリッグ賞:1回(1986年)
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)
- フランチャイズ・フォー選出(2015年)
- 月間MVP:6回(1980年7月、1982年6月、1983年4月、1985年5月・7月、1990年7月)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:13回(1976年 - 1988年)
- シーズン20二塁打・20三塁打・20本塁打(1979年)※史上5人目
- サイクル安打:2回(1979年5月28日、1990年7月25日)※複数回の達成は史上25人目
- 連続試合猛打賞:6(歴代1位タイ:1976年5月8日 - 13日)※ジミー・ジョンストンに並ぶ
- カンザスシティ・ロイヤルズ球団記録
- 通算安打:3154
- 通算二塁打:665(歴代6位)
- 通算三塁打:137
- 通算本塁打:317
- 通算打点:1595
- 通算故意四球:229(歴代7位)
- 通算犠飛:120(歴代6位)
- シーズン打率:.390
- 他多数
背番号
- 25(1973年 - 1974年)
- 5(1975年 - 1993年、2013年)※カンザスシティ・ロイヤルズの永久欠番
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出典
関連項目
外部リンク
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