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久我建通

江戸時代後期の公卿。正二位・内大臣、維新後従一位、勲一等。久我家34代 ウィキペディアから

久我建通
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久我 建通(こが たけみち、旧字体久我 建󠄁󠄁)は、江戸時代後期の公卿関白一条忠良の子。内大臣久我通明の養子。官位正二位・内大臣、維新後従一位、勲一等。久我家34代当主。翠君、素堂と号した。

概要 凡例久我建通, 時代 ...
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経歴

京都で誕生する。文政5年(1822年)に叙爵し、文政9年(1826年)に従三位天保5年(1834年)に正二位嘉永5年(1852年)に大納言と昇進を重ねる。安政元年(1854年)に議奏となり、以後は朝幕間の調停に努め、条約勅許問題、和宮降嫁問題などに関与した。当時の内裏を掌握していたのは、摂政関白でも武家伝奏でもなくこの建通の感があったことから、俗に「権関白」と呼ばれた。

安政5年(1858年)に右近衛大将文久2年(1862年)に内大臣・国事御用掛など要職を務めた。しかし攘夷派に恨まれ、間もなく弾劾を受けて失脚、蟄居落飾処分となった。

明治元年(1868年)に赦免され、宮内省麝香間祗候加茂社司、大教正皇典講究所副総裁などを務めた。明治22年(1889年)、従一位・勲一等に叙せられた。

なお明治になってから建通は、廷臣八十八卿列参事件では自分が中心的役割を果たしたと述懐しているが(『孝明天皇紀』)、『岩倉公実記』では中心は岩倉具視としており、解決をみない。

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系譜

栄典・授章・授賞

位階
勲章

脚注

外部リンク

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