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井上修 (内野手)
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井上 修(いのうえ おさむ、1946年7月20日 - )は、福岡県糟屋郡古賀町出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。
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来歴・人物
福岡電波高校では2年次の1963年、エース若林淳至を擁し秋季福岡大会南部準決勝に進むが、大牟田南高に敗退。1年下のチームメイトに小金丸満がいた。
卒業後の1965年に広島カープへ入団し[1]、3年目の1967年には開幕戦から遊撃手として起用され、二塁手・三塁手も兼ねて47試合に先発出場。その後は出場機会に恵まれず、1970年に阪急ブレーブスへ移籍[1]。阪急でもレギュラー確保まではいかなかったが、内野のユーティリティプレイヤーとして重宝され、1972年には105試合に出場して打率.285の好記録を残す。同年の巨人との日本シリーズでは4試合に代打、守備固めとして出場。その後も脇役ながら活躍を続け、5度のリーグ優勝と3度の日本ーに貢献するなど黄金期を支えた。1979年には遊撃手として大橋穣と併用され、自己最多の57試合に先発出場。1980年引退。
引退後は阪急・オリックスで二軍コーチ補佐(1981年 - 1982年)→一軍守備・走塁コーチ(1983年 - 1985年)→二軍守備・走塁コーチ(1986年 - 1992年)を務め、1984年のリーグ優勝に貢献。退団後は台湾に渡り、統一(1993年 - 1998年コーチ, 2007年ヘッドコーチ)・和信→中信(2001年 - 2006年ヘッドコーチ)でコーチを務めた[1]。統一コーチ時代には大石弥太郎監督の下で2年連続リーグ年間優勝(1995年 - 1996年)、アジア・パシフィックベースボール(1995年11月)でも台湾のプロ野球チームとして初の国際大会優勝に貢献し、1998年には10試合で代理監督を務めた。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1979年10月4日 ※史上212人目
背番号
- 37 (1965年 - 1969年)
- 44 (1970年 - 1972年)
- 5 (1973年 - 1980年)
- 75 (1981年 - 1990年、1993年 - 1998年、2001年 - 2007年)
- 71 (1991年 - 1992年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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