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伊賀上良平
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伊賀上 良平(いがうえ りょうへい、1917年4月29日 - 2000年2月27日[1])は、愛媛県伊予郡松前町[1]出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。1952年以降は、「伊賀上 潤伍」(いがうえ じゅんご)に改名した(「-良平」が本名)。
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来歴・人物
愛媛県伊予郡松前町で誕生。1935年に愛媛県立松山商業学校の3番として、春の甲子園と夏の甲子園に出場。夏の甲子園では優勝した[1]。
1935年12月、大阪タイガースと入団契約。背番号1。1936年秋の試合で初本塁打を満塁本塁打で記録[2]。阪神のルーキーが、初本塁打を満塁本塁打で記録したのは、2012年に伊藤隼太が記録するまで76年間唯一の記録であった[2]。1937年には寮長も兼務、春季の8三塁打は呉波と並ぶ2シーズン制での最多記録(1939年に川上哲治が更新)。1938年、景浦將が外野手にコンバートされたため、三塁手のレギュラーを獲得した。1940年に召集され、1943年に除隊されるものの、神経痛のためプロには復帰しなかった。戦後は松山実業団でプレーしていたが、1949年、大映スターズに入団しプロに復帰。1952年、「伊賀上潤伍」に改名。1954年に引退。
引退後は大映打撃コーチ(1955年 - 1957年)、四国電電監督(1958年 - 1959年)、大阪→阪神打撃コーチ(1960年 - 1961年)を務めた。阪神退団後は故郷に帰り、株式会社松山建装社の参与にも就いた[1]。
2000年2月27日、死去。82歳没
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に球団名を変更
背番号
- 1 (1936年 - 1940年)
- 11 (1949年)
- 3 (1950年 - 1954年)
- 40 (1955年 - 1958年)
- 1 (1960年 - 1961年)
登録名
- 伊賀上 良平 (いがうえ りょうへい、1936年 - 1951年)
- 伊賀上 潤伍 (いがうえ じゅんご、1952年 - 1957年、1960年 - 1961年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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