トップQs
タイムライン
チャット
視点

保井浩一

ウィキペディアから

保井浩一
Remove ads

保井 浩一(やすい こういち、1921年7月19日 - 2001年11月17日)は、京都府出身のプロ野球選手監督

概要 基本情報, 国籍 ...
Remove ads

来歴・人物

平安中学から立命館大学専門部法科を経て、中央倉庫、満州電電、京都大丸で活躍。平安高校監督を務め、戦後初の甲子園出場に導いた[1]1950年東急フライヤーズに入団した。1年目は内野手として主に一塁・三塁を守った。87試合に出場し、打率.280、9本塁打を放つ活躍を見せる一方、3月16日大須球場で行われた西鉄クリッパース戦では4番手投手として、0-14となった4回表の途中から登板し、最後まで投げきった。

1951年限りわずか2年で現役を引退したが、1955年には東映の監督に就任。成績を残せず監督は1年で解任されたが、1956年からは監督の岩本義行の下、二軍監督に就任した[1]1960年、代理監督をつとめていた試合で大毎山内和弘による振り逃げ4得点という珍記録を引き起こしている。

1961年には大洋ホエールズのコーチとなり、1963年からはスカウト部長の任に着いて、関西地区を担当した。そのため、1965年近鉄バファローズの監督に岩本義行が就任すると、保井もコーチとして移籍した[1]衣笠祥雄平安高等学校2年の秋に「今すぐ大洋に来ないか」と誘ったが、その時の衣笠は全然その気がなかったという[2]

その後は滋賀県で割烹旅館の経営をしていた[1]。2001年11月17日、心不全のため死去。享年81(80歳没)。

Remove ads

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 10 (1950年 - 1951年)
  • 30 (1955年)
  • 40 (1956年 - 1960年)
  • 31 (1961年 - 1962年)
  • 70 (1965年 - 1966年)
  • 60 (1967年)
Remove ads

脚注

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads