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全国高等学校野球選手権北陸大会
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北陸大会(ほくりくたいかい)は、1916年(第2回)から1977年(第59回)まで、府県レベルの大会にとどまった1941年(第27回)と、一府県一代表が認められた1958年(第40回)・1963年(第45回)・1968年(第50回)・1973年(第55回)の各記念大会を除いて行われていた、全国中等学校優勝野球大会および全国高等学校野球選手権大会の地方大会。
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概要
複数の府県から優勝校(代表校)1校を決する地方大会のうち、紀和大会と並んで最も多く行われていた地方大会のひとつで、53回行われた。
対象となる県が4度変更され、北信越5県(長野県・新潟県・富山県・石川県・福井県)を対象に2回(ただし、福井県からの参加校なし)、北陸4県(新潟県・富山県・石川県・福井県)を対象に5回(うち1回富山県勢不参加)、北陸3県(富山県・石川県・福井県)を対象に30回、石川県と福井県の2県を対象に12回、富山県と石川県の2県を対象に4回行われた。
北信越5県では金沢市にあった第四高等学校(四高)主催の北陸野球大会が例年行われており、1915年は8月22日より5日間という日程がすでに組まれていた。そこへ8月中旬に第1回全国中等学校優勝野球大会を開催するとの告知が7月1日にあり、日程の調整ができないまま、8月18日より5日間という第1回大会の具体的な日程が7月下旬に決定し、第1回大会については代表校を送り出すことを諦めることとなった[1]。1916年(第2回大会)から全国大会前となるよう日程を調整された北陸野球大会が地方大会(北陸大会)と見なされた。大会名は北陸だが、福井県からの参加校がなく、2回とも長野県勢が優勝した。
福井県勢と山梨県勢の初参加となった1918年(第4回)から山梨県と長野県を対象とする甲信大会が編成され、北陸大会は北陸4県を対象に行われるようになった。5回とも新潟県勢が優勝した。なお、1920年(第6回)は富山県からの参加校がなかった。また、同年から北陸大会の主催が大阪朝日新聞社金沢通信部となり、四高は後援に回るようになった[1]。
1923年(第9回)から前年までの甲信大会が新潟県を加えた甲信越大会に再編され、北陸大会は北陸3県を対象に行われるようになった。30回のうち富山県勢の優勝5回、石川県勢の優勝6回、福井県勢の優勝19回。なお、1931年(第17回)から甲神静大会と信越大会が編成されたため、甲信越大会は前年で消滅している。
信越大会に参加していた長野県が1958年(第40回)以降も単独代表を認められたことを受けて、1959年(第41回)から新潟県と富山県の2県を対象とする北越大会が編成され、北陸大会は石川県と福井県の2県を対象に行われるようになった。12回のうち石川県勢の優勝6回、福井県勢の優勝6回。
北越大会に参加していた新潟県と京滋大会に参加していた京都府が1973年(第55回)も単独代表を認められたことを受けて、1974年(第56回)から福井県と滋賀県の2県を対象とする福滋大会が編成され、北陸大会は富山県と石川県の2県を対象に行われるようになった。4回のうち富山県勢の優勝1回、石川県勢の優勝3回。
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大会結果
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脚注
関連項目
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