トップQs
タイムライン
チャット
視点
吉岡悟
日本のプロ野球選手 (1949-) ウィキペディアから
Remove ads
吉岡 悟(よしおか さとる、1949年4月14日 - )は、富山県中新川郡上市町出身の元プロ野球選手(内野手)・解説者。
Remove ads
来歴・人物
要約
視点
富山商業では3年次の1967年、4番打者、二塁手として甲子園に春夏連続出場。春の選抜では1回戦で熊本工業に敗れる[2]。夏の選手権は3回戦で優勝校の習志野高に敗退[3]。
卒業後は住友金属工業に就職が内定していたが、同年秋のドラフト10位で東京オリオンズに入団。当時は正二塁手に山崎裕之が在籍していたため、なかなか一軍には定着できなかった。しかし1973年には5試合に二塁手として先発出場を果たす。
1975年に菊川昭二郎との交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍し、同年は二塁手としてオリオンズ時代の総出場数を超える69試合に出場、うち20試合は先発として起用される。1976年には基満男の負傷欠場もあって、5月から二塁手のレギュラーを獲得しチャンスメーカーとして活躍。6月20日の日本ハム戦(後楽園)では1試合に3三塁打を放ち、その後も夏場に打率を3割台に乗せると、他球団の主軸が成績を落とす中でもしぶとく打率を維持。打率.309で首位打者を獲得し、前年3位から一転して最下位に終わったチームに明るい話題をもたらしたほか、同年のベストナインにも選出された。なおパ・リーグでは1958年に前身の西鉄中西太が記録した.314を下回る史上最低打率での首位打者タイトル獲得となったうえ、2023年に頓宮裕真(オリックス・バファローズ)が.307で更新するまでパリーグ首位打者の最低打率記録だった[4]。
球団名が「クラウンライターライオンズ」となった1977年は打率が.228まで落ち、リーグ28位に転落。本塁打は2本から6本に増えて非力からは脱却したかに見えたが、前年には13本放っていた三塁打が1本に減少。他球団のマークが厳しくなり、内角の速球に苦しんだのが原因であった。
球団が所沢に移転して「西武ライオンズ」となった1979年は一軍キャンプがフロリダで行われる中、自身は二軍のグアムキャンプからのスタートなって奮起。「よし、やってやるぞ」と連日自ら買って出て特打をする張り切りぶりであったが、開幕後のチームは二塁手のポジションを固定できず、伊原春樹・金城致勲・大原徹也と日替わりで起用していたが、いずれも結果が出ず4月15日の日本ハム戦(西武)でようやく吉岡に出番がまわってきた。この試合で9番打者、二塁手として先発出場すると4試合連続で先発起用されたが、この4試合で計9打数1安打と打撃で全く結果を残せず、その後は代走として出場機会はあったものの5月7日のロッテ戦(西武)を最後に二軍へ降格。6月、行沢久隆との交換トレードで日本ハムファイターズに移籍。ロッテ時代に二軍監督であった大沢啓二監督の下で再起を図り、7月4日の南海戦(大阪)に9番打者、二塁手で移籍後初出場。5打数3安打と結果を残すと、同10日のロッテ戦(後楽園)では仁科時成から1年ぶりの本塁打を放ち、これが現役最後の本塁打となった。
左の代打の切り札として重宝されたが、1980年からは若手の台頭もあって次第に出番が減少し、優勝した1981年は安打が8月9日の阪急戦(西宮)で放った1本に終わる。9月3日の近鉄戦(後楽園)が最後の出場となり、同年シーズンオフに戦力外通告を受けて引退。
引退後は再び博多に戻ったが、東北放送ラジオ「TBCダイナミックナイター」に解説者として出演。2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスが発足して以後の「イーグルスナイター→パワフルベースボール」には出演していない。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更
タイトル
- 首位打者:1回(1976年)
表彰
記録
背番号
- 31(1968年 - 1974年)
- 22(1975年 - 1978年)
- 8(1979年 - 1979年途中)
- 4(1979年途中 - 1981年)
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads