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嘉㔟敏弘
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嘉㔟 敏弘(かせ としひろ、1976年10月6日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
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来歴
1994年に北陽高校のエース兼4番打者として春・夏の甲子園大会に出場。同年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズから競合1位指名を受け、抽選の結果、オリックスが交渉権を獲得。高校通算52本塁打の長打力と強肩を買われ、外野手として入団した。
入団3年目の1997年、春季キャンプの紅白戦で仰木彬監督から登板を命じられ、イチロー、大島公一、トロイ・ニールらを打ちとる[2]。このことがきっかけとなり、外野手兼投手の二刀流に挑戦することになる。対外試合での初登板は3月3日の福岡ダイエーホークスとのオープン戦。9回2死で外野から走ってマウンドに上がり、井口忠仁を抑えた[3]。シーズン開幕後も外野手登録のまま2試合に登板。初登板の日本ハムファイターズ戦で現役晩年の落合博満に本塁打を打たれたが、落合は「野手から打っても全然うれしくないよ」とコメントした。1998年、1999年は投手としての出場はなく、2000年に外野手登録のまま再び登板しプロ初勝利を挙げると、シーズン終了まで投手に専念した。2001年、投手に登録を変更し、左の中継ぎとしてリーグ最多の70試合に登板。2004年は1試合の登板にとどまり、同年10月7日に戦力外通告を受けて現役引退[4]。
なお、2002年からメジャーリーグに挑戦し2010年に復帰した田口壮、2003年に中日に移籍後2013年に復帰した平井正史らとは異なり、1度も移籍せずオリックス一筋でブルーウェーブのリーグ優勝・日本一を経験し引退した最後の選手だった[5][6]。
2012年度のドラフト会議において日本ハムに入団した大谷翔平が二刀流挑戦を表明すると、「NPB最後の二刀流」として複数のインタビュー記事で取り上げられた。外野手登録で投手として登板したことがあるのは1997年と2000年シーズン[7]である。その間は常に「どっちかに専念したい」と考えていたといい、周囲の目も気になったり、野手としての練習を終えた後に何日かに1回は投球練習をしなくてはならなかったりと「本当にしんどいイメージしか残っていません」と語っている[3]。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績
記録
- 打撃記録
- 初出場:1996年4月2日、対近鉄バファローズ1回戦(藤井寺球場)、8回表に馬場敏史の代打として出場
- 初打席:同上、8回表に山崎慎太郎の前に三振
- 初安打:1996年4月4日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、9回表に小川博文の代打として出場、背尾伊洋から単打
- 初先発出場:1996年4月6日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、2番・左翼手として先発出場
- 初打点:1997年4月11日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、2回表に武田一浩から犠飛
- 投手記録
- 初登板:1997年4月18日、対日本ハムファイターズ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回表に3番手で救援登板、2回3失点
- 初奪三振:同上、7回表にナイジェル・ウィルソンから
- 初先発・初勝利:2000年9月17日、対西武ライオンズ24回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回1/3を4失点
背番号
- 9 (1995年 - 2000年)
- 28 (2001年 - 2004年)
- 106 (2005年 - )
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脚注
関連項目
外部リンク
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