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増田浩
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増田 浩(ますだ ひろし、1935年4月25日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手)。
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来歴・人物
向陽高では1953年夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、紀和大会決勝で御所実に敗れ、甲子園出場を逸する[1]。
高校卒業後は、社会人野球の鐘淵化学に進む。1955年の都市対抗野球では中心打者として活躍、全鐘紡との決勝でも本塁打を放つが敗退、準優勝にとどまる[2]。
1956年に阪急ブレーブスへ入団。新人ながら正三塁手・藤井道夫の控えとして守備固めにしばしば起用され108試合に出場する。翌1957年は三塁手の定位置を人見武雄と争う。その後も三塁手・二塁手の準レギュラー格として活躍するが、1960年オフに自由契約となる[3]。
1961年は読売ジャイアンツでプレー。国鉄に放出された土屋正孝の後釜を巡って、藤本伸・塩原明らと二塁手のレギュラーを競うが、45試合の出場で打率.161に終わり、同年限りで現役を引退した。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 9 (1956年 - 1960年)
- 37 (1961年)
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参考文献
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
脚注
関連項目
外部リンク
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