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大北敏博
日本のプロ野球選手 (1952-) ウィキペディアから
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大北 敏博(おおきた としひろ、1952年7月25日[1] - )は、香川県[2]出身の元プロ野球選手(内野手)。
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来歴・人物
高松商業高校では、1968年1年生の時に三塁手として夏の甲子園に出場。3回戦に進むが、静岡商の新浦壽夫投手に0-14で完封負け。2年上のチームメートに吉村健二がいた。翌1969年からエースとして活躍、同期の細川安雄一塁手とともに打線の主軸もこなした。同年夏の甲子園予選北四国大会で決勝に進出するが、松山商の井上明投手に完封され敗退。松山商は甲子園で優勝した。
3年生時の1970年には、細川が捕手に回りバッテリーを組む。春夏の甲子園に出場[2]。春の選抜では1回戦で富山商と延長12回の熱戦の末、1-2で惜敗。この試合ではリリーフながら16三振を奪っている。夏の選手権では1回戦から3試合連続完封勝利の活躍を見せる。しかし準決勝でPL学園の新美敏投手と投げ合い5-16で敗退した。投手ながら打力に優れ、高校時代通算で、打率.420、18本塁打を記録している[3]。
甲子園大会が終了すると、巨人・中日・広島・阪急などプロ野球の数球団から入団の打診を受ける。しかし、大北は東京六大学野球に憧れ、特に早慶戦のマウンドに立つことが夢で、ドラフト会議直前までは早稲田大学への進学を表明、早稲田大学野球部のセレクションに参加するとともに、勧誘を受けた全球団に対してプロ拒否の意向を伝えていた。ところが、ドラフトで巨人に2位指名されると一転してプロ入りを表明し入団したため、マスコミから巨人との密約の疑惑を受けた[3]。
入団後は、高校時代から悩まされていた右肘の故障もあり、強打と俊足を活かして内野手に転向。1972年のジュニアオールスターにも出場するとともに、遊撃手としてイースタン・リーグのベストナインに選ばれる。1976年には打率.333でイースタン・リーグの首位打者を獲得する[4]。1978年には一軍公式戦33試合(うち5試合はスターティングメンバー)に出場し初本塁打も放つが、その後は伸び悩む。1979年オフに成重春生との交換トレードで西武ライオンズに移籍した[2]。1980年には4月に2試合先発出場するが、その後あまり出番はなく、同年限りで現役引退[2]。
引退後は東京で営業マンとして活動[2]。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
背番号
- 43 (1971年 - 1978年)
- 2 (1979年)
- 4 (1980年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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