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大町定夫
日本のプロ野球選手 (1953-) ウィキペディアから
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大町 定夫(おおまち さだお、1953年4月21日 - )は、山口県光市出身の元プロ野球選手(投手)。1983年の登録名は大町 定生(読みは同じ)。
現在は、阪神タイガースの球団職員。
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来歴・人物
柳井商高では1年次の1969年に秋季中国大会で準々決勝に進むが、米子東高に敗退。その後は県予選で敗れて甲子園には出場できず、卒業後の1972年に新日本製鐵光へ入社。
1973年からは偏光グラスをかけ出してプロでもトレードマークになる。1973年のドラフトで太平洋クラブライオンズに6位で[1]、1975年のドラフトではロッテオリオンズに2位で指名されたが、どちらも拒否して新日本製鐵光でのプレーを続けた[1]。
1978年には創部17年目で都市対抗野球初出場を果たし、1回戦で先発するが日本通運に惜敗[2]。この時のチームメイトに大町をリリーフした山本和男がいる。
1979年の都市対抗では初出場の三菱重工広島に補強されて出場し、1回戦から5連投で3勝を記録すると、決勝でも先発し熊谷組に9回逆転勝ちで初優勝の原動力となった[2]。最高殊勲選手に与えられる橋戸賞を受賞し、第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献。同年オフにドラフト外で阪神タイガースへ入団[1]。
1980年から主に中継ぎとして37試合に登板。
1981年には主に抑えとして50試合登板で7勝8セーブ、防御率1.91の成績を収めた。
1982年には4月末から先発陣の一角として起用されるが結果を残せず。
実働僅か4年の現役生活であったが、引退後は、スコアラーやマネージャーを歴任し、2000年には営業部の課長に昇進。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初登板:1980年5月27日、対中日ドラゴンズ6回戦(阪神甲子園球場)、7回表に2番手として救援登板、1/3回無失点
- 初奪三振:1980年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、8回表に堂上照から
- 初先発:1980年7月16日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(横浜スタジアム)、4回2/3を2失点
- 初勝利:1980年8月6日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、4回裏1死に2番手として救援登板、5回1失点
- 初セーブ:1980年8月21日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初先発勝利:1980年10月15日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤ球場)、7回3失点
背番号
- 18 (1980年 - 1983年)
登録名
- 大町 定夫 (おおまち さだお、1980年 - 1982年)
- 大町 定生 (おおまち さだお、1983年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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