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大野敏隆
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
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大野 敏隆(おおの はるたか、1978年5月12日 - )は、埼玉県生まれ[1][2]、群馬県育ち[2]の元プロサッカー選手。ポジションはMF。
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来歴
1997年に前橋商業高校から柏レイソルに入団。ユース代表では中村俊輔とともに"W司令塔"とよばれチームの中心であった。柏では3年目から背番号10を与えられ、卓越したテクニックとパスワークで、長くチームの主力選手として活躍した。柏が初タイトルを獲得した1999年のヤマザキナビスコカップ決勝の鹿島アントラーズ戦では先制ゴールをあげた[3]。
2003年6月より京都パープルサンガに期限付き移籍[4]。2004年には名古屋グランパスエイトに期限付き移籍。契約期間は2004年2月から翌年1月までだったが[5]、チーム状態が悪くJ2降格危機となった柏に呼び戻され、2004年9月1日付で柏に復帰[6]。J1・J2入れ替え戦でもゴールを決めJ1残留に貢献した。
だが2005年は入れ替え戦に敗れ柏はJ2降格。2006年に向けて、柏でコーチを務めたラモス瑠偉が新監督に就任した東京ヴェルディ1969へ完全移籍。ラモスに指名され、移籍初年度から主将に就任した[7]。だが、6月21日の第23節ヴィッセル神戸戦で腰部に痛みを訴え途中交代。外傷性腰部椎間板ヘルニアと診断され同月30日に手術を受けた。第44節古巣の柏戦で復帰するがコンディションが戻っておらず、結局その後試合に出場することなくシーズンを終えた。
2007年は前年の手術の影響が残り、途中交代や欠場する試合が多かったが、主将としてチームを引っ張りJ1復帰に貢献した。
2008年、J1昇格に伴い柱谷哲二が監督に就任。前年自身が欠場していた際にほとんどの試合でキャプテンマークを巻いていた服部年宏が主将を継ぎ、大野は開幕からサブメンバーとしてベンチを温める日々が続いたが、柱谷がシステム変更に着手したのを機にスタメンとなり出場機会を増やす。しかし、8月18日に以前からの問題である腰部椎間板ヘルニアの手術を行い、全治3ヶ月と発表される。シーズン終盤に復帰したもののチームは1シーズンでのJ2降格を喫し、大野も2008年限りでの退団が発表された。
以後、去就に関する公式発表はなかったが、2010年3月15日付の『桐生タイムス』に大野がサッカースクールを開設するという記事が掲載され、引退した事が判明[8]。
2024年現在は、自身のサッカークラブチームにて、ジュニア、ジュニアユースの指導者として活動している。
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所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
- 1997年 - 2005年 柏レイソル
- 2003年6月 - 2004年1月 京都パープルサンガ (期限付き移籍)
- 2004年2月 - 同年8月 名古屋グランパスエイト (期限付き移籍)
- 2006年 - 2008年 東京ヴェルディ1969/東京ヴェルディ
個人成績
その他の公式戦
- 2004年
- J1・J2入れ替え戦 2試合1得点
- 2005年
- J1・J2入れ替え戦 2試合0得点
代表歴
タイトル
- 1993年 - 南橘中学校
- 第24回全国中学校サッカー大会 (得点王)
- 1999年 - 柏レイソル
- ヤマザキナビスコカップ (優勝)
脚注
関連項目
外部リンク
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