トップQs
タイムライン
チャット
視点
服部年宏
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
Remove ads
服部 年宏(はっとり としひろ、1973年9月23日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。
Remove ads
選手経歴
小学生時代は清水市の選抜チーム・清水FCのメンバー。東海大学第一高校卒業後、東海大学2年修了時にジュビロ磐田に練習生として参加、そのままプロ契約し、大学を中退した。1年目から左のサイドバック・ウイングバックとしてレギュラーとして活躍。他に中盤の底やストッパーを務めることができる守備のポリバレント選手。磐田でも1999年、名波浩がヴェネツィアに移籍し、中盤構成に苦しむ中、ボランチを務める。
1996年アトランタオリンピックで、ブラジル代表の最大のキーマンとされたジュニーニョ・パウリスタのマンマーク役を務め完封した事で一躍その名を上げると、同年には日本代表にも初召集されデビューを果たす。1998年ワールドカップ、2002年ワールドカップに出場[2]。トルシエ政権下では左ストッパーとしてレギュラーに定着していた時期もあったが、2001年にフランスに大敗後、守備強化を掲げたトルシエは服部を左サイドの守備固め要員に回し、左ストッパーにはユースや五輪で頭角を示していた中田浩二が起用されたため、本大会では控えになった。監督がジーコに変わってからは左サイドバックとして起用されたが、世代交代やシステム変更もあり代表から外れた。
2006年12月に磐田を退団、東京ヴェルディ1969への移籍が決定。背番号は長年着用していた6番は菅原智が着けていたため、心機一転の意味を込めて空いていた22番を選ぶ。2007年出場停止1試合を除く47試合でスタメンフル出場。本人にとって初めての移籍であったが、早々にチームにフィット、セットプレイのキッカーも務めシーズン最多の15アシストを記録、J1昇格に貢献。主将の大野敏隆が不在の場合にはゲームキャプテンを務めた。
2008年は大野の後を継ぎ主将に就任。チームはJ2に降格し、クラブ経営悪化の影響で退団が発表されていたが、ラモス瑠偉常務や高木琢也新監督の意向により、東京Vと再契約を結んだ。2009年、親会社の交代による経営規模縮小の影響を受け東京Vを退団。
2010年、ガイナーレ鳥取へ移籍。主将としてチームを率いJFL初優勝、Jリーグ加盟に貢献、リーグ年間MVPを獲得した[3]。
2011年引き続きガイナーレ鳥取の中心選手として活躍、同年12月19日にFC岐阜への完全移籍発表[4]。
2012年、移籍1年目にしてキャプテンを務める。主に中盤の底でプレー、全42試合にフル出場した。
Remove ads
指導者経歴
2013年12月16日、古巣磐田の強化部長に就任[6]。2014年末、Jリーグ功労選手賞を受賞[7]。
2016年6月、静岡県サッカー協会理事に就任[8]。同年9月にJFA 公認S級コーチの認定を受ける。
2020年10月、ジュビロ磐田のコーチに就任[9]。2021年シーズンはヘッドコーチを務めていたが、同年10月に監督の鈴木政一が体調不良を訴え入院したため、急遽監督代行として指揮を執ることになった[10]。シーズン中に鈴木監督が復帰。ヘッドコーチに戻った。
2021年12月25日、ジュビロ磐田のヘッドコーチを退任[11]。そして福島ユナイテッドFCの監督に就任[12]。
2023年シーズンは第17節終了時点で18位に低迷し、7月12日に退任が発表された[13]。
2024年シーズンからFC今治の監督に就任[14]。チームを初のJ2昇格へと導いたが、同年12月1日に退任が発表された[15]。
Remove ads
人物・エピソード
- 磐田時代ドゥンガのプレーを間近に見てきており、ゲームキャプテンを2005年まで務め、ドゥンガのように味方を叱咤する存在であった。
- 体のケアを大事にしており、練習後のマッサージにかなり時間をかけていた。
- 2003年、以前ジュビロ磐田応援テレビ番組を担当していたSBSの元アナウンサー、朋子夫人(旧姓上田)と結婚。2008年に長女誕生。
- 高校時代、同じクラスのサッカー部員に岩下潤がいた。授業中他に比べ居眠りの多い両名に、熱血派でフェンシングの国体選手でもあった担任教員の大きな理解があった。服部は東海大学体育学部に進学し、体育会サッカー部に入部し、一方の岩下は高校卒業とともに清水に入団し、一度は道は分かれた。その後在学2年で服部も磐田へ入団し、同じくJリーガーとなった。のちに服部は日本代表の中心的な選手となる。
- 派手さのないルックスをしばしば話題にされるが、2000年3月の対横浜F・マリノス戦で、突然髪を黒髪から金髪にして登場しファンを驚かせた。その金髪で臨んだ同年のアジアクラブ選手権では、対戦相手の監督から名指しで「あの金髪は強かった」と対人プレーの強さを絶賛された。
- 朋子夫人と、2010年に加入したガイナーレ鳥取の塚野真樹代表取締役社長は米子東高校時代の同期生。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1986年 - 1988年 清水市立第四中学校
- 1989年 - 1991年 東海大学第一高等学校
- 1992年 - 1993年 東海大学 (中退)
- プロ経歴
- 1994年 - 2006年
ジュビロ磐田
- 2007年 - 2009年
東京ヴェルディ1969/東京ヴェルディ
- 2010年 - 2011年
ガイナーレ鳥取
- 2012年 - 2013年
FC岐阜
個人成績
その他の公式戦
- 1997年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1998年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1999年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2000年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2001年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2003年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2004年
- スーパーカップ 1試合0得点
その他の国際公式戦
- 2003年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
Remove ads
代表歴
出場大会など
- 1992年 U-19日本代表
- 1993年 ユニバーシアード日本代表
- 1996年 アトランタ五輪日本代表(グループリーグ敗退)
- 1996年 AFCアジアカップ UAE大会 日本代表(ベスト8)
- 1998年 フランスW杯 日本代表(グループリーグ敗退)
- 1999年 コパ・アメリカ パラグアイ大会 日本代表(グループリーグ敗退)
- 2000年 AFCアジアカップ レバノン大会 日本代表(優勝)
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ2001 日本代表(準優勝)
- 2002年 日韓W杯 日本代表(ベスト16)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 日本代表(グループリーグ敗退)
試合数
- 国際Aマッチ 44試合 2得点 (1996-2003)[2]
出場
得点
Remove ads
指導歴
- 2013年12月 - 2021年 ジュビロ磐田
- 2013年12月 - 2019年12月 強化部長
- 2020年 - 同年10月 アカデミーヘッドオブコーチ
- 2020年10月 - 同年12月 トップチーム コーチ
- 2021年 - 同年12月 トップチーム ヘッドコーチ
- 2022年 - 2023年7月 福島ユナイテッドFC 監督
- 2024年 FC今治 監督
- 2025年 - ジュビロ磐田U-15 監督
監督成績
- ※2023年は退任時点の成績。
タイトル
チーム
- ジュビロ磐田
- J1リーグ : 3回 (1997年、1999年、2002年)
- J1 1stステージ : 4回 (1998年、1999年、2001年、2002年)
- J1 2ndステージ : 2回 (1997年、2002年)
- Jリーグカップ : 1回 (1998年)
- アジアクラブ選手権 : 1回 (1998-99)
- ガイナーレ鳥取
- 日本フットボールリーグ : 1回 (2010年)
代表
個人
- 2001年 Jリーグベストイレブン
- 2010年 日本フットボールリーグ MVP・ベストイレブン
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads