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柱谷哲二
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
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柱谷 哲二(はしらたに てつじ、1964年7月15日 - )は、京都府京都市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者・解説者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。元日本代表。

出場時の多くはキャプテンとしての出場であり、チームを激しく鼓舞するその姿から「闘将」と呼ばれた[2]。現役引退後はJリーグ選手協会[3]、Jリーグ選手OB会それぞれの初代会長を務める[4]。
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経歴
選手として
日産自動車サッカー部、ヴェルディ川崎、日本代表等でセンターバック、守備的MFを務め長年活躍。日産では加茂周監督の下、「ボランチ」という言葉が日本国内に普及する以前に中盤の底の役割を確立し、1992年にはこのポジションの選手としては初となるJSL年間最優秀選手に選出された[5]。しかし1991-92年シーズンのJSLの終了後、日産のライバルチームである読売ヴェルディに移籍、すぐにJリーグカップ優勝を経験するなど[6]、チームの中心メンバーの一人として1998年まで在籍した。1993年5月15日、Jリーグ開幕戦となったマリノス戦に出場、5月29日の浦和戦でJリーグ初ゴールを挙げた[7]。1998年のシーズン終了後、高年俸だったことと、チームの若返りを図る意図からV川崎から「0円提示」。現役続行の意思を表明していたが、他チームからオファーが来ずそのまま現役を引退した[8]。Jリーグでは通算183試合に出場、13ゴールを挙げた[7]。
1988年1月27日のアラブ首長国連邦戦で代表デビューを果たすと[9]この試合で代表初ゴールを挙げた。1992年からのオフトジャパン時代にはキャプテンに指名される[10]。1993年開催のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選のイラク戦でも主将として先発フル出場[9]、ドーハの悲劇を経験した。加茂ジャパン発足後もでもキャプテンに指名されていた。1996年オーストラリア遠征の代表メンバーに選出されていたが、この時はコンディションの悪さから参加を辞退、以降は怪我もあり代表から遠ざかった[11]。1988年から1995年までの間に日本代表に選出され、Aマッチ72試合に出場した[12]。
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引退後
その後NHKなどで解説者を務めていた。
2002年、岡田武史の後任としてコンサドーレ札幌監督に内定。前年に講習を受けていたS級ライセンス取得後に正式に就任となった。J1リーグ戦と ナビスコカップを含めた公式戦13試合で2勝と低迷し、2002 FIFAワールドカップ開催中の6月に解任された。札幌は16チーム中最下位でJ2リーグへ降格した。
2001年から2002年まで国士舘大学サッカー部のコーチに就任したが、天皇杯で国見高校に敗れた。
2003年に浦和レッドダイヤモンズのコーチに就任し、主にサテライトを中心に指導。
2005年にJ2・東京ヴェルディ1969のコーチに就任。2006年から監督を務めるラモス瑠偉をサポートし2年がかりでのJ1復帰を果たした。
2008年からラモスの監督退任に伴い東京Vの監督に就任。札幌時代以来、6年ぶりとなるJ1クラブの指揮を執ることになった。最終節の敗戦を受けて、18チーム中17位と降格が決定。シーズン終了後に監督を退任した。
2011年シーズンより、J2・水戸ホーリーホック監督に就任。2015年6月、成績不振により解任された[13]。
2016年シーズンより、J3・ガイナーレ鳥取監督に就任[14] したが、同シーズン限りでの退任が11月に発表された[15]。
2017年シーズンより、JFLのヴァンラーレ八戸監督に就任[16]。2017年11月、昇格を果たせなかったことなどを理由として八戸の監督を退任した[17]。
2018年3月、花巻東高校サッカー部のテクニカルアドバイザーに就任[18]。
同年6月20日、J3・ギラヴァンツ北九州の監督に就任[19]。11月2日、契約満了により北九州の監督を退任すると発表された[20]。
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エピソード
- 横浜F・マリノスへのライバル心が強く、試合後の会見で「1993年Jリーグ開幕節で負けたときのことを今でも覚えている。その時の悔しさが少しでも晴れたのかと」とコメントしている[21] が、柱谷はJリーグ開幕前までは日産の選手であり、チームに溶け込むのに時間がかかったほどである[22]。
- 1994年W杯予選中に、選手、監督が瓦解しそうになるが、キャプテンとしてラモス瑠偉を始めチームメイトとの話し合いを重ね、チームを1つにまとめ上げた[23]。
- 2012年4月8日の千葉戦ではレフェリーの判定に対して納得がいかず、ペットボトルを叩きつけたことによって退席処分、1試合のベンチ入り禁止処分を受けている[24]。
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合1得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1994年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1995年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1997年
- XEROX SUPER CUP 1試合1得点
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個人タイトル
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 72試合 6得点[1]
出場
得点数
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指導歴
監督成績
書籍
著書
- 日本サッカー 革命の記憶と予感(Kosaido soccer selection、2002年3月13日)ISBN 9784331508732
脚注
関連項目
外部リンク
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