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鷲羽山佳和

日本の元大相撲力士 ウィキペディアから

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鷲羽山 佳和(わしゅうやま よしかず、1949年4月2日 - )は、岡山県児島市(現在の倉敷市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は石田 佳員(いしだ よしかず、旧姓は鈴木)。身長175cm、体重112kg。得意手は突っ張り、押し、いなし。最高位は東関脇(1976年5月場所)。

概要 鷲羽山 佳和, 基礎情報 ...

引退後は年寄・境川出羽海高崎を襲名。出羽海時代の1996年2月から2014年1月までは出羽海部屋の師匠も務めた。

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来歴

要約
視点

岡山県立琴浦高等学校(現・岡山県立倉敷鷲羽高等学校)を中退して、兄(後の十両常の山)が所属していた出羽海部屋から1967年3月場所で初土俵を踏んだ。初土俵の際に同姓の力士が既に在籍しており四股名選びに困っていたところ、入門前に姻戚関係に当たる初代常ノ山との縁で常ノ山の若名乗りである鷲羽山を与えられ、以後引退まで鷲羽山で通す。身長173cmという入門規定ぎりぎりで合格し、小さい体で活躍した。1972年7月場所で十両に昇進、前場所の取組で負傷し、新十両の場所を全休する不運に見舞われたものの、1972年1月場所より採り入れられた公傷制度を十両力士として初めて適用されたことで、「十両の土俵に上がらないまま幕下陥落」という事態を免れ、実質的な新十両場所とされた1972年9月場所でも勝ち越しはできなかったものの、十両残留相当の成績を修めた。以降は負傷も回復し、新入幕を果たした1973年5月場所では、初日から8連勝するとともに大関清國を破る殊勲の星を挙げる[2]など11勝4敗と大勝ちし、この好成績で敢闘賞を受賞した[1][3]1977年7月場所では、殊勲・敢闘賞が該当なく、技能賞の彼だけが三賞受賞者となるという珍しい状態になったこともあった。

小柄ながら正攻法の相撲で、突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く土俵を沸かせた[1][3]。『ちびっ子ギャング』[3][4]の異名を取り、旭國北瀬海らとともに小兵旋風を吹かせ技能派力士として人気を博した。北の湖には1975年11月場所8日目に金星を獲得、また新小結だった1976年3月場所4日目にも勝利している。この大横綱をして、「あの人は僕とは相撲の見方が違う」と言わしめた力士だった。ただし輪島に対しては極端に成績が悪く、初顔から18度戦って終に、一度も勝てずに終わった。

小兵力士ながら36歳まで現役を務めており、大型力士が輩出した時代の中では特筆される。現役時代晩年には幕内と十両を往復していたが、その当時に黒船と称されるほどの快進撃を続けていた小錦八十吉を破り、話題になった。 1985年11月場所後に現役を引退して年寄・境川を襲名し、以後は出羽海部屋付きの親方として、後進の指導に当たった。

1996年2月には、出羽海理事長横綱佐田の山)が理事長職に専念するため出羽海部屋の経営から離れることになったことを受けて、出羽海と境川の年寄名跡を交換して10代出羽海を襲名するとともに伝統ある出羽海部屋を継承した[3]2002年には、出羽海一門を代表して日本相撲協会理事に就任した。

直弟子からは、小結・普天王、十両・出羽鳳出羽平を育てた。自身の停年退職後には出羽疾風も十両に昇進している。

2010年3月31日に大関・把瑠都昇進伝達式で使者を務めた際には、私服姿で夜の繁華街を闊歩したことなどで過去に2度の厳重注意を受けた例を引き合いにして「相撲も大事だけど、私生活もな。これからは、横綱みたいに注目されるのだから」と把瑠都に苦言を呈する異例の様子を見せた。同年1月場所直後に横綱・朝青龍が一般人への暴力行為を働いた不祥事を受けて引責引退したばかりであっただけにこの時期には外国出身力士の品格が厳しく問われていた。出羽海は伝達式から引き揚げる際にも「上を目指して努力してほしいが、私生活でも気を引き締めてもらわないといけない」と改めて訴えた[5]

2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では執行部(事業部長)として、また弟子の野球賭博関与の監督責任で、名古屋場所謹慎の処分となる[6]。場所中に入院した武蔵川理事長から場所後の理事長代行の指名を受けていたが、賭博問題を受けて発足した特別調査委員会の山口弘典の暴力団への維持員席のチケットが渡ったとされる問題で、山口の委員就任前に報告を受けながら黙認したことが問題となり、代行は場所中に努めた外部理事の村山弘義がそのまま務めることになった[7]

2014年4月に停年(定年)を迎えることに伴い、同年1月場所後に元前頭2・小城ノ花の高崎親方と名跡を交換し出羽海部屋を継承させ、自身は15代・高崎を襲名した後、予定通り同年4月1日付で日本相撲協会を停年退職した。

停年退職後の2016年12月20日、第49回日本プロスポーツ大賞授賞式で、スポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受賞した[8]2018年3月26日、日本相撲協会の評議員に就任[9]

御嶽海が大関昇進を果たした際には、かつて出羽海部屋の師匠を務めた者の立場で「部屋一丸となって大関を作ってくれた。これに満足せず、横綱に向けてなお一層努力して欲しい。年齢が30になろうとしている。1日も早く足がかりを作って夢を実現させてもらいたい」とコメント[10]

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人物

  • 四股名の由来である鷲羽山は実家のすぐそばにあり、本人曰く「あまりに平凡で嫌だった。知り合いから電話があっても近所の山の方と混同されそうで恥ずかしかった」といい、私生活で恥じることなくこの四股名を名乗ることができるようになるまで襲名以降1年から2年を要したという[11]
  • 現役時代から語彙が多く表現力が長けており、「高見山に振られた時は宇宙遊泳してるようだった」などの名言を残した。
  • 土俵入りでは、はらたいらが描いた「モンローちゃん」の化粧廻しを使用した時期もある[12]
  • 新年の恒例番組だった『大相撲部屋別対抗歌合戦』(フジテレビ)では親方時代に至るまで自らセンターに立つなど、意欲的に参加していた。現役時代、カラオケでは演歌、懐メロで右に出る者はいないという歌唱力を誇ったが、現役当時の座談会では「五木ひろしの歌オンリー」と言っていた[13]
  • 相撲茶屋「伊勢福」の女将(元小結・大起の未亡人)の養子となって、鈴木姓から石田姓に改めた。
  • 1981年3月場所6日目に行われた座談会では9代出羽海の喜ぶ顔を見るために相撲を取っていることなどを明かした[14]
  • 元幕内力士である石浦宮城野部屋)が現役時に「自分が尊敬し、目標とする力士」として鷲羽山の名を挙げていた[8][15]
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主な成績・記録

  • 通算成績:699勝646敗83休 勝率.520
  • 幕内成績:319勝353敗63休 勝率.475
  • 現役在位:112場所
  • 幕内在位:49場所
  • 三役在位:5場所(関脇3場所、小結2場所)
  • 三賞:8回[16]
    • 敢闘賞:3回 (1973年5月場所、1975年9月場所、1976年3月場所)
    • 技能賞:5回 (1976年1月場所、1976年5月場所、1976年11月場所、1977年5月場所、1977年7月場所)
  • 金星:2個(琴櫻:1個、北の湖:1個)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:3回(1978年5月場所、1978年7月場所、1983年3月場所)

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...

幕内対戦成績

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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年寄変遷

  • 境川 佳和(さかいがわ よしかず)1985年11月-1996年2月
  • 出羽海 義和(でわのうみ よしかず)1996年2月-2014年1月
  • 高崎 義和(たかさき -)2014年2月-2014年4月

関連項目

参考文献

  • 『戦後新入幕力士物語 第3巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社1991年、p616-p628)
  • ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)

脚注

外部リンク

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