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闘竜賢二

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闘竜 賢二(とうりゅう けんじ、1958年12月19日 - )は、兵庫県加古川市出身(出生地は東京都北区岩淵町)で、三保ヶ関部屋に所属した元大相撲力士。本名は田中 賢二(たなか けんじ)。最高位は西関脇1984年5月場所)。現役時代の体格は180cm・154kg。得意手は右四つ、突き・押し・寄り。

来歴・人物

加古川市立川西小学校時代は東平津稲荷の相撲大会で4年生ながら上級生を次々に倒し注目された。加古川市高砂市組合立宝殿中学校に進むも、伝統のあった相撲部が廃部になっていたため柔道部に入り、3年次の兵庫県大会個人戦で準優勝、近畿大会出場を果たした[1]

中学卒業後、三保ヶ関部屋(当時、中学校の先輩である大竜川が所属していた)へ入門。1974年3月、15歳で初土俵を踏んだ。

序ノ口で番付に初めて名前が載った1974年5月場所より「闘竜」を名乗り、引退まで四股名を一度も改名する事は無かった。

幕下時代から有望視され、1979年1月場所で新十両昇進、同年11月場所で新入幕を果たした。

丸っこい体型からの押し、右四つの寄りを得意として、1984年5月場所では最高位となる関脇に昇進するも、負傷が多く上位に定着できなかった。

1990年1月場所を以って、31歳で引退。年寄二十山(のち中立)を借株で襲名してしばらく日本相撲協会に残ったが、両国梶之助の引退に伴い1992年12月に廃業(退職)した。

なお「闘竜」の四股名は、出身地にほど近い兵庫県加東市を流れる加古川名勝闘竜灘」に因んだとされる。

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記録

  • 延べ4人の横綱(輪島2代若乃花千代の富士隆の里)と21回対戦し、延べ3勝を挙げた(うち2勝は金星)が、全て2代若乃花からの白星であった。2代若乃花が横綱に在位していた時期に6回対戦し、初顔から3連敗したものの4回目の対戦から3連勝し、最終的に五分の成績を残した。輪島とは1回の対戦のみで1敗・千代の富士とは10戦全敗・隆の里には4戦全敗だった。
  • 千代の富士及び隆の里とは、両者が大関以下だった時期にも対戦歴があり、その時期の対戦も含めると対千代の富士は15戦全敗・対隆の里は3勝15敗だった。
  • その他、後に横綱となる力士延べ7人との対戦を経験し(各力士が横綱在位中の対戦歴は無い)、北尾(後の60代横綱・双羽黒)に1勝2敗、保志(後の61代横綱・北勝海)に4戦全敗、大ノ国こと大乃国(後の62代横綱)に1勝7敗、旭富士(後の63代横綱)に1勝4敗、(後の64代横綱)・貴花田(後の64代横綱・貴乃花)・若花田(後の64代横綱・3代若乃花)にそれぞれ1敗の成績を残した。
  • 貴花田及び若花田の実父である大関・貴ノ花とは1980年9月場所4日目に対戦し、突き落としで敗れた。上述の通り貴花田及び若花田との対戦も経験した(貴花田には1989年11月場所10日に寄り切りで、若花田には翌1990年1月場所10日目に下手投げで、それぞれ敗れた。)ため、結果的に闘竜は「花田親子」全員と対戦した力士第1号(第2号は関脇・巨砲)として、名を残す形となった。
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主な戦績

  • 通算成績:576勝607敗18休 勝率.487
  • 幕内成績:330勝402敗18休 勝率.451
  • 現役在位:96場所
  • 幕内在位:50場所
  • 三役在位:3場所(関脇1場所、小結2場所)
  • 三賞:1回
    • 敢闘賞:1回(1982年7月場所)
  • 金星:2個(1982年7月場所7日目・1983年1月場所4日目、いずれも2代若乃花

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...
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幕内対戦成績

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴

  • 田中 賢二(たなか けんじ)1974年3月場所(※前相撲のみ)
  • 闘竜 賢二(とうりゅう -)1974年5月場所-1990年1月場所

年寄変遷

  • 二十山 賢二(はたちやま けんじ)1990年1月-同年9月
  • 中立 賢二(なかだち -)1990年9月-1992年12月

注釈

関連項目

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