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谷嵐久
日本の大相撲力士 (1952-2010) ウィキペディアから
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谷嵐 久(たにあらし ひさし、1952年4月16日 - 2010年10月19日[1])は、大分県中津市出身(出生地は福岡県北九州市)で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は山口 久(やまぐち ひさし)。現役時代の体格は181cm、128kg。最高位は西前頭4枚目(1979年3月場所)。得意手は突き、押し、寄り[2]。
来歴・人物
大分県立中津工業高校に入学してから相撲を始め、3年生の時には全国大会に出場し上位入賞するなど活躍した。高校卒業直前に、知人の紹介で時津風部屋へ入門。1971年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同一の「山口」[2]。
序ノ口に付いた翌3月場所で7勝0敗と好成績を残して序ノ口優勝を果たすなど、入門直後から周囲の期待が高かった。幕下までは順調に番付を上げていったものの、幕下上位で長く苦労し、十両に昇進したのは初土俵からおよそ6年4ヵ月後の1977年5月場所でのことだった。その間、四股名を同部屋の先輩・北葉山に因んだ「若北葉」に改めていたことがある(しばらくしてから、元の「山口」へ再改名)。
十両では常に好成績を残し、1978年5月場所で新入幕を果たした。これを機に「山口」から、郷里の大先輩である谷嵐市蔵に肖った「谷嵐」へ改名した[2]。
立合い突っ張ってから、右四つないしもろ差しで強引に寄り切るといった取り口で将来を嘱望されたが、押し相撲とも四つ相撲とも言えぬ相撲であったためなかなか幕内で勝ち越すことができなかった。
3度目の入幕を果たした1979年1月場所では、初日から7連勝で最終的に10勝5敗と幕内通算3場所目にして初めての勝ち越しを決めた。しかし、結果的に幕内での勝ち越しは、この1場所のみで終わることとなる。自己最高位の西前頭4枚目で迎えた翌3月場所では、13日目を終わって7勝6敗と白星先行していたもののそこから連敗し、7勝8敗と惜しくも勝ち越しを逸した。翌場所は、7勝7敗の五分で千秋楽を迎えるも、敗れて7勝8敗と負け越し。
それ以降は怪我もあって低迷し、同年9月場所を最後に、2度と幕内へ返り咲くことはなかった。
以後は十両においても一度も勝ち越せず、1980年3月場所後、幕下へ陥落。そして同場所限りで、「谷嵐」の四股名も返上して本名の「山口」に戻した。
その後は、1981年9月場所の1場所のみ十両に復帰したが、本来の相撲は全く取ることができずに以降はずっと幕下に留まった。
1982年11月場所後、ご当地の九州場所で4勝3敗と勝ち越したのを契機に30歳で廃業[2]。断髪式は、元小結・双津竜(引退後、年寄・錦島を襲名)、元前頭・牧本(同じ九州および高校相撲出身)と、同じ1982年11月場所限りで現役を退いた兄弟子との合同で行った。
廃業後は故郷へ戻り、相撲茶屋「谷嵐(なりや)」を経営していた[2]。因みに次男は、谷嵐が力士であった縁からかプロ野球引退後にちゃんこ屋経営の道を歩んでいる[3]。
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主な戦績
- 現役在位:71場所
- 通算成績:345勝292敗12休 勝率.542
- 幕内在位:7場所[2]
- 幕内成績:46勝59敗 勝率.438
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1978年11月場所)
- 幕下優勝:2回(1977年3月場所・1982年3月場所)
- 序ノ口優勝:1回(1971年3月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴
- 山口 久(やまぐち ひさし)1971年3月場所-1974年11月場所
- 若北葉 久(わかきたば -)1975年1月場所-1976年9月場所
- 山口 久(やまぐち -)1976年11月場所-1978年3月場所
- 谷嵐 久(たにあらし -)1978年5月場所-1980年3月場所
- 山口 久(やまぐち -)1980年5月場所-1982年11月場所
脚注
関連項目
参考文献
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