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小川三知

大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家 ウィキペディアから

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小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日慶応3年5月29日)- 1928年昭和3年)10月24日)は大正から昭和初めに活躍したステンドグラス工芸家

橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォーアール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。

経歴

慶応3年(1867年)、静岡県静岡市裏一番町十五番地(現在の住吉町)で静岡藩医・小川清斎の次男として生まれた。壕頭学校[1]静岡中学校卒業後、上京[1]。明治16年(1883年)、独逸学協会学校予備科に入学[1]。長男漣平が早世したため、家業の医者になるべく第一高等中学校に入学したが、絵画への憧れは消えなかった[1]。明治22年(1889年)3月発行の雑誌『美術園』二号に、三知は短いが本格的な日本画擁護論を寄稿しており、三知の見識の高さが窺える[2]東京美術学校が設立されると、明治23年(1890年)弟剣三郎に家督を譲るのを条件に、一高を中途退学して同校日本画科に入り橋本雅邦に学んだ。卒業後、図画教師として山梨神戸中学校師範学校で教えた。この頃三知は、雪舟の『山水長巻』を全図模写している。明治33年(1900年)にアメリカへ留学、シカゴ美術館附属美術大学で水彩画を教え、セントルイス万国博覧会で日本館の仕事を手伝った。後に農商務省海外実業練習生になり、漆芸について研究した。またステンドグラスに興味を持ち、各地の工房で技法を学んだ。

明治44年(1911年)、日本に帰国し慶應義塾図書館のステンドグラスを依頼された。和田英作の絵を原図にした作品は評判になった(現在残るものは昭和42年に設計図を元に復元されたもの[3])。個人邸に納めた作品が多く、鳩山会館(旧・鳩山一郎邸)、安藤記念教会、聴潮閣高橋記念館などが知られている。しかし、関東大震災や戦災によって現存している作品は少ない。

三知の死後は、三知の夫人が中心となって職人4、5人で小川スツヂオを維持したが、ステンドグラスの修行をしていない夫人には荷が重く昭和6年(1931年)に閉鎖。当時ステンドグラスは建築物の一部と見なされたため、作品が評価され始めたのはその死の数十年後である。

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主な現存作品[4]

建築

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明治大学記念館正面のステンドグラス(1991年撮影)

邸宅

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鳩山会館のステンドグラス

船舶・車両

  • 氷川丸 (昭和5年(1930年)) 一等特別室ステンドグラス。
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家族

脚注

参考文献

外部リンク

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