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小川寛興

日本の作曲家(1925-2017) ウィキペディアから

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小川 寛興(おがわ ひろおき、1925年3月5日 - 2017年7月19日)は、日本の作曲家東京府東京市芝区新橋(現在の東京都港区)出身。日本作曲家協会監事。

概要 小川 寛興, 生誕 ...

来歴

大倉高等商業学校中等科卒業(1943年)。

声楽立松房子薗田誠一作曲および管弦楽法を服部良一、指揮法を森正に師事。藤原歌劇団合唱部でオペラを勉強するが、挫折し作曲に転向する。

1947年、服部良一の内弟子となり、1950年独立[1]。服部門下の兄弟子に原六朗佐野雅美らがいる。

帝国劇場ミュージカルの作曲および専任指揮者を経て、1960年から1961年までは日本コロムビアの専属作曲家となり、1962年から1973年まではキングレコードの専属作曲家となった。

1957年には、テレビドラマ『ぽんぽこ物語』で初めてテレビドラマの音楽を手がけ[注釈 1]、次番組『月光仮面』以降、宣弘社制作のテレビ番組の多くで音楽を担当した[1]。宣弘社社長の小林利雄は、交友関係があった服部から紹介されたと証言している[2]

1965年には、倍賞千恵子の「さよならはダンスの後に」が第7回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。

主に映画、テレビ、ラジオ音楽方面の作曲家として活躍した。

1957年から品川区荏原に在住。品川文化振興事業団副理事長、品川区教育委員会委員を務め、「品川区民芸術祭」の開催に尽力。2001年、「東海道四百年祭」のオープニングイベントとして行われた区民参加型のオリジナルミュージカル『しながわ物語』の構成と作曲を手がけた[注釈 2]。その功績が認められ、2015年12月、品川区名誉区民を受章した(ちなみに、師である服部良一も1968年から1993年の死去に至るまで荏原に在住しており、1987年12月に名誉区民を受章している)[3]

1997年、勲四等旭日小綬章受章[4]

2017年7月19日、多発性脳梗塞のため死去[5]92歳没。死去から5ヵ月後の12月30日に行われたレコード大賞において特別功労賞が贈られた[6]

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エピソード

  • 元々は歌手を志望していたが、師事していた服部良一の勧めにより作曲家へ転向した[1]。作曲法は、服部を真似して楽器を使わずに直接楽譜にメロディを書くという手法をとっており、ピアノは確認のために使う程度であるという[1]
  • 小川の全盛時代のBGM作りは、撮影後のフィルムを見ながら行う方式が一般的だった。特に東映作品の場合、現代劇は東京、時代劇は京都で撮影するというように明確に分けられていたため、両ジャンルを担当する劇伴作家は東京と京都の間を往復しながら作曲を行っていた。小川の場合も、夕方に出来てくるラッシュフィルムを旅館で見ながら劇伴を作り、翌朝に楽譜を撮影現場に届けるということがしばしばあったが、当時、ピアノが置いてある旅館が京都には一軒しかなかったため、他の作曲家たち、特に渡辺岳夫とピアノの取り合いになることが多かったという[7]

主な作品

クラシック作品

  • 交響組曲「カラーによる幻想」
  • バレエ音楽「砂の城」
  • 交響曲「日本の城」

映画音楽

テレビ番組テーマ曲

歌謡曲

特別番組

校歌

童謡

脚注

参考文献

外部リンク

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