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森昌子

日本の歌手、女優 (1958-) ウィキペディアから

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森 昌子(もり まさこ、1958年昭和33年〉10月13日 - )は、日本の元歌手、元女優。本名:森田 昌子(もりた まさこ)。栃木県宇都宮市出身。

概要 森(もり) 昌子(まさこ), 出生名 ...

前夫は森進一。長男はONE OK ROCKTaka、次男はテレビ東京の社員およびミュージシャンのはてな、三男はMY FIRST STORYのHiroこと森内寛樹

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来歴

生い立ちと学歴

芸能界デビュー

  • 1971年(昭和46年) 同年10月開始の日本テレビスター誕生!』(1971)に13歳で出場。初代グランドチャンピオンとなる。同番組には、昌子本人ではなく、激しい人見知りを克服してほしいと親戚の叔母が内緒で申し込んだもの。オーディション当日は、「洋服を買ってあげるついでだから」という口実で歌を歌わせた。
    • グランドチャンピオンになった結果、家に色々な芸能プロダクションが来て、昌子を芸能界に勧誘するようになった。父親は猛反対だったものの、家が貧しかったこと、母親の体が弱かったことから、家計の助けになるであろうと、昌子本人が父を説得して芸能界デビューした。ホリプロダクション(現ホリプロ)に所属。ホリプロに決めたのは、学業と両立させてくれるからだった。本名から"田"を抜いた芸名にしたのは硬い響きが取れるようにという判断[2]
  • 1972年(昭和47年)7月1日、徳間音工から『せんせい』で歌手デビュー。当時のキャッチフレーズは、「あなたのクラスメート」と称された。その翌年デビューした同学年の山口百恵桜田淳子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれる。
  • 1973年第24回NHK紅白歌合戦NHK総合ラジオ第1#NHK紅白歌合戦出場歴参照)に出演。なお、この中三トリオで最初にNHK紅白歌合戦に初出場を果たしたのは森であり、当時女性最年少の15歳での出場だった。なお、現在の女性最年少記録はクララ・ローズFoorin)の6歳。
  • 1973年(昭和48年)、松竹の『男じゃないか・闘志満々』で映画デビュー。同年、『としごろ』で主演に抜擢された。この年から開催された『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)の初代チャンピオンとなる。
  • 1975年(昭和50年)、『花の高2トリオ・初恋時代』で初めて山口・桜田と共演。また、この年3〜4月に開催された、春の選抜高等学校野球大会第47回)に『おかあさん』が入場行進曲に選ばれ、森もセンバツ大会の開会式にゲスト出演した。
  • 1977年(昭和52年)、堀越高校を卒業。同期卒業生には岩崎宏美岡田奈々池上季実子らがいる。

演歌歌手へ

  • 1977年(昭和52年)の『なみだの桟橋』以降、本格的な演歌歌手への道を歩み始め、『津和野ひとり』『彼岸花』(1978年・昭和53年)など、難易度の高い曲を歌いこなせる実力派へと成長。
  • 1979年(昭和54年)、新宿コマ劇場で史上最年少女座長として『森昌子公演』を行う。
  • 1981年(昭和56年)、第32回NHK紅白歌合戦では『哀しみ本線日本海』で出場9回目、23歳にして初の紅組トリを務める。
  • 1983年(昭和58年)、『越冬つばめ』で第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。感激の余り受賞時に嬉し涙を流しながら歌い、その後の第34回NHK紅白歌合戦でも泣きながらの歌唱となる。このほか、TBSの金曜ドラマ『想い出づくり。』などドラマにも出演、女優としても活躍した。
  • 1984年(昭和59年)、NHKみんなのうた』で、『海へ来て』を歌う。放送期間は、1984年(昭和59年)8月1日 - 9月30日(再放送は5回)。
  • 1985年(昭和60年)、第36回NHK紅白歌合戦で初の紅組司会を、歌手出番では2度目の紅組トリをそれぞれ務める『愛傷歌』の歌唱前から感極まって号泣したため、途中で歌えなくなった。
  • 1986年(昭和61年)10月1日に森進一と結婚。
  • 2001年(平成13年)、「第52回NHK紅白歌合戦」に出場を機に、夫との「デュエット歌手」として芸能活動再開。

離婚

  • 2005年2月、自宅で過呼吸の発作を起こし、意識を失って倒れ緊急入院した。薬物中毒と診断され、集中治療室にて胃洗浄を受けた。過換気症候群とも呼ばれる一種のパニック障害だった。集中治療室から一般病棟に移って間もなく、夫の進一が医師に退院を要請し、本人の同意の上で、わずか1日で退院した。このことが様々な臆測を呼び、ワイドショー週刊誌に不仲説が取り上げられて、後の離婚騒動に発展した。
  • 同年3月、進一と別居。4月19日、離婚を発表。親権を長男が昌子側、次男と三男が進一側で持ち、養育権は3人とも昌子側とすることを進一が提案し、昌子が同意した。養育費は1人につき13万円として進一が負担した[3]

活動再開後

  • 2006年3月27日、旧所属事務所のホリプロからソロの歌手として活動再開することを正式発表。4月、幻冬舎から初エッセー集『明日へ』を刊行。その後、和田アキ子・片平なぎさ榊原郁恵らにより、『おかえり! 昌子 激励の会』が開かれ、関係者700人が詰め掛けた。5月、『NHK歌謡コンサート』でテレビに復帰。『哀しみ本線日本海』『越冬つばめ』『父娘草』を涙ながらに熱唱した。以後意欲的にテレビ出演などの活動を行う。6月7日、古巣のポニーキャニオンから20年ぶりの新曲『バラ色の未来』をリリース。ジャケットタイトルは森大衛揮毫)。この年の暮れには、同曲で第57回NHK紅白歌合戦に5年ぶりに出場した。元夫・進一との競演が注目されたが、結局順序をずらしての出演となり、2人が同じステージに出演する場面は一度も無かった。なお、2007年(平成19年)以降、紅白には出場していない。
  • 2007年 上期のNHK連続テレビ小説どんど晴れ』で女優業を本格再開。7月13日には22年ぶりのドラマ主演となる金曜プレステージお母さん ぼくが生まれてごめんなさい』放送。
  • 同年9月26日、体調不良を訴え、急性肺炎により急遽入院。同日予定していた熊本のコンサートを始め、同年内のツアーの中止を発表。
  • 2008年2月5日、『NHK歌謡コンサート』で『越冬つばめ』を歌い、芸能活動を再開した。
  • 同年3月31日、ホリプロを退社。4月1日に個人事務所おんがく工房を設立。
  • 2009年2月28日個人事務所、おんがく工房より通販による新曲『子供たちの桜』リリース。
  • 同年5月、子宮筋腫の手術を受ける。
  • 同年12月31日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』大晦日年越しSP『絶対に笑ってはいけないホテルマン24時』の中で、デビュー当時の髪型、衣装で『せんせい』を熱唱した。
  • このころから更年期障害貧血、デビュー当時の歌唱力を失った自信喪失などからうつ状態に陥る。
  • 2010年5月17日、子宮頸癌治療のため、子宮を全摘出手術[4]。癌と知って一時的に自殺願望が生まれたことを告白、退院時の記者会見の模様も放送された。
  • 2011年3月23日、レコード会社をホリデージャパンに移籍。新レーベル、ハートソングレコーズから『洗濯日和』をリリース。
  • 2012年11月21日 レコード会社をキングレコードに移籍し「人生に乾杯」を発売
  • 2016年7月1日 デビュー45周年を迎えた、同日、記念シングル「百年の恋歌」 アルバム「百年の恋歌~時を終えて』を発売。当日は自身初のクラブでの記念ライブショーが東京丸の内の「コットンclub」で開催された。
  • 2019年3月25日、年内限りでの芸能界引退を所属事務所が発表[5][1][6]
  • 12月25日、故郷の栃木県宇都宮市でのコンサートをもって活動終了。
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特記事項

親交
  • 美空ひばりに大変可愛がられていた。ひばりがテレビ局に共演を持ちかけ、昌子を楽屋に呼んだことが最初の対面である。そのときひばりの歌を歌って気に入られ、自宅に招かれて、直接歌を習ったりすることもたびたびあった。ひばりは自らを「オネエチャマ」と呼ばせ、レッスンが遅くなると彼女を自宅に泊めたりもした[7]
  • 美空ひばりからはプライベートで「マチャコ」と呼ばれていたが、初対面での印象「まあ、ちっちゃい子」から「マチャコ」と呼ぶようになった。ひばりはプライベート以外TV・ラジオなど公の場では絶対に「マチャコ」と呼ぶことはなかった。愛川欽也が「僕が『マチャコ』と呼んだとき、ひばりさんから『森昌子』って名があるのよと注意された」と述懐している。
カバー
物まね
  • 南沙織、あべ静江、小柳ルミ子の歌マネは絶品で最近売れてる本職のモノマネ芸人よりも完成度が高く、声だけ聴いてたら当人と聴き分けが困難なほど上手い物真似で清水ミチコやコロッケも脱帽した。
  • 先述の通りものまねが上手かったため、ある生放送番組でアグネス・チャンといたずらをしかけた。自分の手番にアグネスがこっそり音声をオフにし、舞台裏から昌子が別のマイクで彼女の歌をあてた。スタッフ一同誰もそのことに気づかず、昌子がばらしたときは怒られるどころか、ものまねの上手さに驚かれ賞賛されたという[8]
  • その他、八代亜紀、仲間由紀恵などものまねのレパートリーの幅は本職のモノマネ芸人よりも多いくらい幅がひろい。
いたずら
  • 若い時はかなりのやんちゃで、八代亜紀がよくいたずらのターゲットになった。髪の毛をかためるスプレーを缶一本使い切る程ふりかけたり、八代が綺麗なヒラヒラのドレスを着ていた時、中身がどうなっているか確認するためめくったりした(本人いわく「ビラ〜ンとまくったら足だった」)。八代が1977年(昭和52年)第28回NHK紅白歌合戦の紅組トリで「おんな港町」を歌い出す時、昌子がマイクのコードを知らずに踏んでいて、あやうくステージ中央に間に合わないところだったことを、30数年の時を経て本人に謝罪した。ただし昌子は、それが『舟歌』の時だと記憶違いをしていた。
中三トリオ
  • 中三トリオと呼ばれた昌子、百恵、桜田の三人は、生放送本番直前まで一緒にトイレに隠れたりして、スタッフをよく困らせていた。山口百恵が引退して約3年経った1983年12月の『週刊読売』での徳光和夫との対談では「二人とは全然会ってません。ぷっつりですね。電話で話すこともありません。思い出っていっても、つい最近のことだったんだから、三人集まって話をするようなことは別にないし、今あっても、せっかく中三トリオから高三トリオっていう名前がついてたものが、何かぺらっぺらのすごく軽いものになっちゃっていやなんですよね」などと述べ[9]、2006年の昌子の著書『明日へ』では、三人はそれほど親しくはなく、ハワイに行った時も同室で気まずい空気になった、と述べているが、一方で自伝的エッセイ『それはじんせい』(2011年)の付属写真では、昌子が桜田の頬にキスする程親しい仲である、と書いており、内容が矛盾している。
  • デビュー前の山口百恵は昌子の付き人であり、昌子の家に下宿していた。
家族
  • 子煩悩で子育てに厳しく、挨拶は徹底し、偏食しないよう気を遣い、兄弟間でも長幼有序を守らせた。成人後も弟は兄に敬語で話すという。また、テレビに自身の映像が映りそうになると素早く察知して電源を消すようにし、国民のアイドルではなく子供達だけの母親であるように努めたという。
その他
  • 2005年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する森の代表曲で背景映像に森本人が出演する映像が多く採用されている。主な作品は以下の通りである。
    • あなたを待って三年三月
    • 哀しみ本線日本海
    • 立待岬
  • 19歳の時に、単身でアメリカのロサンゼルスへ旅行。友人宅に泊めてもらい逗留しつつ、アメリカの若者を観察して、アイドルとして輝いているはずの自分がアメリカの若者に見られるような輝きを持っていないのはなぜか、と考えたという。
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NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度/放送回, 回 ...

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。

ディスコグラフィ

シングル

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デュエット・シングル

さらに見る 発売日, デュエット ...

企画シングル

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委託製作盤

アルバム

  • 「せんせい/同級生」 発売元 徳間ジャパン 1972年11月25日発売
  • 「中学三年生」 発売元 徳間ジャパン 1973年3月25日発売
  • 「マコ想い出の歌」 発売元 徳間ジャパン 1973年6月25日発売
  • 「白樺日記〜マコ初恋へのあこがれ」 発売元 徳間ジャパン 1973年10月1日発売
  • 「若草の季節〜マコの好きなヒット曲」 発売元 徳間ジャパン 1974年4月1日発売
  • 「森昌子ショウ〜下町の青い空」 発売元 徳間ジャパン 1974年6月1日発売
  • 「おかあさんに捧げる詩」 発売元 徳間ジャパン 1974年12月1日発売
  • 「十六歳の演歌〜他人船」 発売元 徳間ジャパン 1975年2月1日発売
  • 「森昌子ショウ〜北風の朝」 発売元 徳間ジャパン 1975年3月1日発売
  • 「森昌子民謡集〜北海盆唄」 発売元 徳間ジャパン 1975年9月10日発売
  • 「あの人の船行っちゃった」 発売元 徳間ジャパン 1975年12月1日発売
  • 「五周年森昌子ショウ-初姿-」 発売元 徳間ジャパン 1976年3月1日発売
  • 「森昌子十七才の演歌〜別れの一本杉」 発売元 徳間ジャパン 1976年7月1日発売
  • 「青春の日記 森昌子五周年記念アルバム」 発売元 徳間ジャパン 1976年9月1日発売
  • 「森昌子歌舞伎座特別公演 青春の熱唱」 発売元 徳間ジャパン 1976年11月10日発売
  • 「森昌子傑作民謡第二集」 発売元 徳間ジャパン 1977年1月21日発売
  • 「新春特別公演森昌子ショー“演歌に涙と青春を”1977年1月18日 浅草国際劇場」 発売元 徳間ジャパン 1977年3月1日発売
  • 「森昌子十八歳の演歌 南国土佐を後にして/長崎物語」 発売元 徳間ジャパン 1977年7月1日発売
  • 「新歌舞伎座特別講演ライブ 涙の熱唱」 発売元 徳間ジャパン 1977年11月1日発売
  • 「すぐに消えそうな愛なら」 発売元 徳間ジャパン 1978年4月1日発売
  • 「十九歳の演歌 港・桟橋・別れ唄」 発売元 徳間ジャパン 1978年7月1日発売
  • 「お嫁にゆきます 森昌子デビュー7周年記念東宝映画 サウンドトラック盤」 発売元 徳間ジャパン 1978年9月5日発売
  • 「森昌子デビュー7周年記念リサイタル 〜熱唱ひとり舞台〜 1978年9月21日 帝国劇場」 発売元 徳間ジャパン 1978年11月1日発売
  • 「昌子哀愁」 発売元 徳間ジャパン 1979年7月1日発売
  • 「二十歳の演歌 銀のライター/みちづれ」 発売元 徳間ジャパン 1979年8月1日発売
  • 「旅立ち」 発売元 ポニーキャニオン 1980年3月21日発売
  • 「森昌子古賀メロディーを唄う 〜二十一歳の演歌〜」 発売元 ポニーキャニオン 1980年7月21日発売
  • 「そしてひとり」 発売元 ポニーキャニオン 1980年11月21日発売
  • 「北寒港」 発売元 ポニーキャニオン 1981年4月21日発売
  • 「森昌子十周年記念リサイタル 1981年9月26日 大阪厚生年金ホール」 発売元 ポニーキャニオン 1981年11月21日発売
  • 「北のおんな」 発売元 ポニーキャニオン 1982年5月21日発売
  • 立待岬…愛しき人へ」 発売元 ポニーキャニオン 1982年11月21日発売
  • 「北風は暖かい〜今、故郷は…〜」 発売元 ポニーキャニオン 1983年8月21日発売
  • 「森昌子 艶華12」 発売元 ポニーキャニオン 1984年3月21日発売
  • 「女の暦〜ゆれる想い〜」 発売元 ポニーキャニオン 1984年12月5日発売
  • 「愛傷歌〜やがて秋から冬へ〜」 発売元 ポニーキャニオン 1985年10月21日発売
  • 「日本のうた〜森昌子15周年記念」 発売元 ポニーキャニオン 1986年1月21日発売
  • 「おぼえていますか、あの時を…」 発売元 ポニーキャニオン 1986年8月5日発売
  • 「いつまでも ありがとう そして、今…さようなら」 発売元 ポニーキャニオン 1986年8月21日発売
  • 「あのころ」 発売元 ポニーキャニオン 2007年8月22日発売
  • 「時の過ぎゆくまま〜心のスクリーン〜」 発売元 キングレコード 2014年3月5日発売
  • 「森昌子ベスト15 今、あなたへ」 発売元 キングレコード 2014年9月17日発売
  • 「ゴールデン☆アイドル」森昌子 「せんせい」〜「さよなら」までシングルAB面全99曲を収録 発売元 ポニーキャニオン 2015年2月11日
  • 「百年の恋歌 ~時を超えて~」45周年記念アルバム プロデューサー:加藤登紀子 発売元 キングレコード 2016年7月1日発売
  • 「名曲選」発売元 キングレコード 2017年10月13日発売
  • 「森昌子全集 1972-2019」発売元 キングレコード 2019年6月26日発売
  • 「森昌子全曲集2021」発売元 キングレコード 2020年9月9日発売
  • 「森昌子全曲集2022」発売元 キングレコード 2021年9月8日発売
  • 「森昌子全曲集」発売元 キングレコード 2022年9月7日発売

タイアップ曲

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主な出演

映画

テレビドラマ

バラエティ番組等

当時芸能人のものまね番組の常連であった。

ラジオ・有線 番組

舞台

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主な受賞歴

CM

主著

  • 森昌子 『明日へ』 幻冬舎、2006年、149頁。ISBN 4-344-01154-6
  • 森昌子 『それはじんせい』主婦と生活社 週刊女性2010年7月 - 2011年5月連載 再編集2012年

脚注

関連項目

外部リンク

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