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山本忠男
日本のプロ野球選手 (1944-) ウィキペディアから
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山本 忠男(やまもと ただお、1944年6月28日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
在日コリアンで、本名は李 忠男(イ・チュンナム、ハングル:이충남)。現役引退後の1983年には、韓国プロ野球(KBO)の三星ライオンズで、ヘッドコーチ→監督代行→監督を務めた。
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経歴
要約
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中学生時代には、桑原征平(関西テレビ出身のフリーアナウンサー・種智院大学客員教授)および、桧山進次郎(元・阪神タイガース外野手)の伯母と同級生だった。
平安高校への進学後は、3年時の1962年に「4番(または5番)・三塁手」として春夏連続で甲子園球場の全国大会に出場。春の第34回選抜高等学校野球大会では、1回戦で日大三高に敗れた(同校はこの大会で準優勝)。夏の第44回全国高等学校野球選手権大会1回戦でも、西条高校の石川洵(立教大学→鐘紡) - 村上公康のバッテリーの前に、1 - 2というスコアで惜敗している。
卒業後に進学した龍谷大学でも、1年時から「4番・三塁手」に抜擢された。チームが当時加盟していた関西六大学リーグでは、チームの1部昇格に貢献。1966年春季リーグで近畿大学、秋季リーグで関西学院大学と優勝を争ったが、いずれも2位で初優勝に届かなかった。在学中には、リーグ戦で通算77試合に出場。打率.231(273打数63安打)、4本塁打を記録した。同期生に伊能正司がいる。
1966年のNPB第2次ドラフト会議で、南海ホークスから2位指名を受けて入団。大柄な身体ながらベース一周で14秒2というタイムを手動計測で記録したほどの俊足を買われて、1年目の1967年には、遊撃手として一軍公式戦11試合でスタメンに起用された。1970年には、一軍公式戦で自己最多の87試合に出場。古葉竹識・青野修三との間で正二塁手の座を争ったが、翌1971年に桜井輝秀が二塁手のレギュラーに定着してからは出場機会が減少した。
捕手兼任監督の野村克也や内野手→一軍ヘッドコーチのドン・ブレイザーから薫陶を受けていたことを背景に、1972年限りで現役を引退してからも、南海で二軍守備・走塁コーチ(1973年・1974年)、二軍ヘッドコーチ(1975年)、一軍コーチ(1976年・1977年)を歴任。1977年のシーズン終了後に野村の監督解任騒動が起こったことを機に、球団から強い慰留を受けながらも、野村と共に退団した。翌1978年には、野村が捕手専任でロッテオリオンズへ移籍したのに対して、自身は阪急ブレーブスの二軍コーチへ就任[1]。1980年から1982年まで、一軍の守備・走塁コーチを務めた[1]。
1983年には、前年に創設されたばかりのKBOで、三星ライオンズのヘッドコーチに就任。シーズン中には、徐永武監督が体調が優れないことを理由に休養したことを受けて、監督代行を務めた。球団は後に山本を監督に昇格させたが、韓国語に堪能でなかったことが災いして、総合成績4位でシーズンを終えた。このシーズン限りで監督を解任されたものの、南海時代に野村とブレイザーの下で身に付けた対戦データ分析のノウハウはチーム内で継承。翌1984年から2年連続の韓国シリーズ進出や、1985年の初優勝につながった。
日本への帰国後に、広告会社を経営。理髪館(株式会社マツモトが大阪府・兵庫県内で展開する理髪店チェーン)の広告を取り扱う縁で、2004年6月に関西テレビを定年で退職した桑原を、2018年まで理髪館の「キャンペーンボーイ」(看板モデル)に起用させていた。その一方で、学生野球資格回復制度を通じて、2015年1月30日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定[2]。同協会に加盟する高校・大学の野球部での指導が可能になったことから、母校の龍谷大学硬式野球部でコーチを務めた。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 26 (1967年 - 1972年)
- 75 (1973年 - 1977年)
- 70 (1978年 - 1982年)
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脚注
関連項目
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