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山田伝
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山田 伝(やまだ でん、1914年2月5日 - 1987年5月12日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント出身(和歌山県日高郡切目川村生まれ)の元プロ野球選手(外野手、投手)・コーチ。日系二世[1]。
NPB初のベストナイン(外野手部門)も受賞している。
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来歴
エリグローブ高校卒業後[1]はノンプロチーム「スタクトン大和」を経て、セミプロチーム「アラメダ児野オールスターズ」に入団。1937年に同チームの日本遠征で来日したところをスカウトされ、同年に阪急軍へ入団[1][2]。戦争でも帰国しなかったことから、戦時中断を挟んで、1番・中堅手として1938年秋から1946年までほぼフル出場。1940年には個人打撃成績5位の打率.272を挙げてベストナインを獲得。その後も1944年まで5年連続で打撃成績10位以内に入り、特に1942年は打率.250(リーグ4位)、1943年は打率.272(リーグ2位)の好成績を残した。また、1939年と1943年の二度盗塁王になっているが、1943年に記録した56盗塁は戦前のシーズン最多記録である(戦後、1948年に南海ホークスの河西俊雄が66盗塁で更新)。
左投げながら、二塁手として通算6試合出場している(1939年3試合、1940年2試合、1942年1試合)。また、1940年には投手として1勝を記録しているが、4月6日に挙げたその1勝は、対南海戦にて32-2で圧勝、現在も最多得点、最多得点差のプロ野球記録に残っている試合で完投勝利したものだった。
引退後は会社の通訳[3]を経て、阪神で通訳兼スコアラー(1964年 - 1966年, 1972年)、一軍外野守備・走塁コーチ兼通訳(1967年 - 1971年, 1973年, 1976年)、通訳(1974年 - 1975年, 1977年 - 1978年)を務めた。
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人物
非常に俊足の選手で、守備の際どんな打球でも体の中央のへその部分で捕球したところから[4]、「ヘソ伝」として人気を博した[2]。山田自身はこれを「カンガルーキャッチ」と呼んでいた[5]。
当時阪急にはハワイ出身の上田藤夫が在籍していたが、上田のハワイ式英語はアメリカ本土出身の山田には通じなかったという[4]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別投手成績
タイトル
- 盗塁王:2回 (1939年、1943年)
表彰
- ベストナイン:1回 (1940年)
背番号
- 11 (1937年 - 1943年、1947年 - 1948年)
- 2 (1946年)
- 54 (1967年 - 1969年)
- 63 (1970年)
- 79 (1971年、1973年)
- 71 (1976年)
出典
参考文献
関連項目
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