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引地信之
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引地 信之(ひきち のぶゆき、1930年11月3日 - 1999年6月23日)は、山口県出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
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来歴・人物
下関商業では甲子園に4回出場。戦後初となる1946年夏の選手権では、準決勝に進むが京都二中に敗退[1]。1947年春の選抜は1回戦で慶応普通部に完封負け[2]、同年夏の選手権は準々決勝に進むが、仙台二中に敗れる[1]。1948年春の選抜は準決勝に進むが、京都二商の足立礼四郎(法大-近鉄)に抑えられ敗退[2]。
卒業後は大洋漁業の関連会社である林兼造船に務めながらノンプロチーム「全下関」でプレーし[3]、1952年に大洋ホエールズへ入団。1年目の同年から遊撃手のレギュラーを獲得し[3]、103試合出場で規定打席(42位、打率.230)にも達する。1956年には二塁手に回り、1958年までレギュラーを守った。堅実な守備で知られ、1952年5月18日の国鉄戦(後楽園)から1957年8月29日の巨人戦(後楽園)まで708試合連続出場を記録[4]。1959年には中村敏行に定位置を譲り、同年限りで現役を引退。
引退後も大洋のスカウトに転身し、山下大輔や長崎慶一を発掘[3]。二軍守備コーチ(1973年 - 1974年, 1977年)・二軍監督(1975年 - 1976年, 1978年 - 1979年)も務め、二軍監督に就任した1975年には高木由一や田代富雄らを擁してイースタン・リーグ優勝を飾るなど若手選手の育成にも力を入れた[3]。その後は地元・下関に帰郷し、西日本を中心として再度スカウトを担当[3]。1990年に統一ライオンズで日本人初のコーチに就任し、1993年退任。
1999年6月23日に心筋梗塞のため死去。68歳没。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更
背番号
- 39 (1952年)
- 22 (1953年 - 1959年)
- 70 (1973年 - 1979年、1990年 - 1993年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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