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忍ぶ川
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『忍ぶ川』(しのぶがわ[1])は、三浦哲郎の小説、またそれを原作とした映画、ドラマ化作品である。小説は『新潮』1960年10月号に掲載、同年に第44回芥川賞を受賞した。
三浦自身の私小説ともいわれ[2]、私大苦学生の「私」は、東京深川の料亭「忍ぶ川」で働く不幸な生い立ちの志乃と知り合い、「私」の郷里青森県八戸で結婚、初夜を迎えるまでの過程を叙情的に描く[2]。
映画
要約
視点
映画『忍ぶ川』は1972年5月25日公開[3]。俳優座作品。東宝配給。モノクロ・スタンダード作品。
- 併映は『白鳥の歌なんか聞こえない』[4]
キャスト
スタッフ
製作
三浦哲郎の原作が発表された1960年に東宝が映画化権を獲得[2]。当時熊井啓は日活の助監督だったが、映画化しようと脚本を書き上げた[2]。また松竹の前田陽一も三浦と早大時代の友人で、岩下志麻を主役に映画化を目論んだが、松竹に蹴られた[2]。そこで前田は熊井に話を持ち掛け[2]、熊井を三浦に紹介[2]、三浦から「僕が諦めない限り他の誰にも映画化権を渡さない」という約束を取り付けた[2]。そこへ吉永小百合事務所が企画、映画化権の取り合いになった[2]。
熊井は構想段階では吉永小百合を主演に予定していたが[5]、劇中のシーンの問題などから吉永の親族と軋轢を起こし[6]、結局吉永の主演が実現しなかったばかりか、後に吉永の母の手記で名指しされ痛烈に批判されるなど、しこりが残った。映画の実現まで10年以上を要したため、幻の企画と呼ばれた[2]。
撮影
当時としては珍しい一年がかりの撮影[2]。原作の八戸を始め、日本各地をロケハンし、初夜シーンの撮影は山形県米沢市に最終決定した[2]。1971年2月15日に当地でクランクインを予定していたが、熊井が深酒で胃を壊し喀血[2]。病院に担ぎ込まれたが危険な状態で、録音の太田六敏らが輸血を買って出て一命を取りとめた[2]。このため熊井の療養が夏までかかり、1971年7月9日、改めて夏のシーンからクランクインした[2]。1972年2月14日からは冬の米沢ロケ。この年の米沢は70年ぶりの暖冬といわれ、例年なら軒先まで積もる雪が少なめで30センチ程度。初夜シーンの撮影は当地の李山(すももやま)の築150年の農家で行われた[2]。撮影を前に熊井は「はやりのポルノ映画ではなく、これは日本の伝統的な儀式であり、二人の生への復活でもある」と説明した[2]。また栗原小巻は「この作品を大女優への踏み台にしたい。本当は心配なんですけど、しょうがありませんわ。女優ですもんね。全裸シーンだけに関心を持たれると困るんですけど、スタンドインにはお世話にならないつもりです」と意を決した[2]。
米沢ロケは栗原と加藤剛、栗原の姉役の山口果林が参加したが[2]、山口がちょうどNHKの朝ドラ『繭子ひとり』のヒロインを務めていたため、建立300年という普門寺での法要シーンの撮影では、栗原以上にファンからのサイン責めに遭い、悲鳴を上げた[2]。
作品の評価
最終的にヒロイン志乃を演じた栗原小巻はその容姿、演技力と、大女優には珍しいヌード・シーンが評判となり、この映画は『栗原の代表作の一つ』となっている[7]。なおキネマ旬報の最優秀女優賞では、僅差で栗原小巻が伊佐山ひろ子に敗れ、これも映画界で大いに話題になった。
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テレビドラマ
要約
視点
1961年版
1961年1月22日にTBS「東芝日曜劇場」枠にて放送された。
キャスト
スタッフ
- プロデューサー - 石井ふく子
- 制作 - TBS
1962年版
1962年1月21日に『続・忍ぶ川』のタイトルで、TBS「東芝日曜劇場」枠にて放送された。
キャスト
スタッフ
- プロデューサー - 石井ふく子
- 脚本 - 八住利雄
- 制作 - TBS
1963年版
1963年1月20日に『忍ぶ川 その三』のタイトルで、TBS「東芝日曜劇場」枠にて放送された。
キャスト
スタッフ
- プロデューサー - 石井ふく子
- 制作 - TBS
1975年版
1975年7月7日 - 8月29日にTBS「花王 愛の劇場」枠にて放送された。
キャスト
スタッフ
- 制作 - 国際放映、TBS
2000年版
2000年3月8日に『にっぽんの名作・朗読紀行「忍ぶ川」』のタイトルで、NHKBShiにて放送された。
キャスト
スタッフ
- 演出 - 大林宣彦
- プロデューサー - 川村尚敬
- 制作 - NHK
- 共同制作 - KAZUMO
- 美術-竹内公一
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関連項目
脚注
外部リンク
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