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吉永小百合

日本の女優、歌手 (1945-) ウィキペディアから

吉永小百合
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吉永 小百合(よしなが さゆり、1945年昭和20年〉3月13日[2] - )は、日本の俳優歌手ナレーター司会者タレント。本名:岡田 小百合(おかだ さゆり)。旧姓:吉永。

概要 よしなが さゆり 吉永 小百合, 本名 ...

1960年代を代表する人気映画女優。10年間で、70本以上の映画に出演。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。ファンは「サユリスト」と呼称される[3]

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来歴

要約
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1963年
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『映画情報』1966年9月号の表紙

1957年(昭和32年)、渋谷区立西原小学校6年生の時、ラジオドラマ赤胴鈴之助』でデビュー。同年4月、渋谷区立代々木中学校に入学。同年10月、ラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビュー。1959年(昭和34年)に松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。

1960年(昭和35年)3月、渋谷区立代々木中学校卒業。同年4月、東京都立駒場高等学校全日制普通科入学。同時に日活撮影所に入社。駒場高校では一週間のみ卓球部に所属し、素振りしかやらせてもらえない環境に耐えられず放送研究会(副部長が一学年先輩の加藤登紀子だった)に転部[4]。1961年(昭和36年)1月、精華学園女子高等学校に転入学。

1962年(昭和37年)4月8日、『キューポラのある街』が公開。第13回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞する。同年4月20日、主演映画『赤い蕾と白い花』の主題歌「寒い朝」をシングルとしてビクターからリリースし、レコードデビュー。50万枚以上[5]のヒットを記録した。同年9月に発表した橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」も300万枚の大ヒットとなった。

「日活の看板女優」として、浜田光夫と1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こす。男性アクション映画路線を主軸としていた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。また、ブロマイドがあまりの売れ行きに店頭から姿を消すなどの現象も起き、松原智恵子和泉雅子の3人で「日活三人娘」と呼ばれた。また、浅丘ルリ子芦川いづみ中原早苗らと合わせて「日活パールライン」とも呼ばれた。

俳優業多忙のため精華学園女子高校は中退していたが、1965年(昭和40年)には、大学入学資格検定に全科目合格は出来ていなかったものの早稲田大学より高卒同等以上の学力があると認められ、早稲田大学第二文学部西洋史学専修に入学。

1967年(昭和42年)10月、株式会社吉永事務所を設立。

1969年(昭和44年)、早稲田大学を次席で卒業。同年、年2本以上の日活作品に出演する代わりに他社の作品や自主制作映画は日活側の諒解を得れば自由に出演が出来る条件で日活と契約更新する[6]。しかし当時はヤクザ映画が全盛で、吉永向けの純愛・青春系の作品を制作するのは既に困難であった[6]。1969年に吉永事務所により『あゝ野麦峠』の映画化が計画され、内田吐夢監督、吉永主演(政井みね役)で自主制作を検討するも実現しなかった[7]。野麦峠に何回か訪れていた吉永は現地に「政井みねの碑」を寄贈している[7]。なお、『あゝ野麦峠』は10年後の1979年に山本薩夫監督、大竹しのぶ主演で映画化された[7]

1973年(昭和48年)8月3日、当時フジテレビのディレクターだった岡田太郎と結婚。挙式は岡田の会社の同僚であった千秋与四夫の高輪の自宅で行われた。出席者は新郎新婦の他、立会人兼仲人として挙式の場所を提供した千秋とその妻で歌手の畠山みどり、吉永側の介添人として女優の奈良岡朋子の5人のみ。同日午後から京王プラザホテルで披露宴を執り行われた。挙式の際、吉永の両親が欠席したため確執が噂されたが、後年のインタビューで吉永自身が否定している[8]

1988年(昭和63年)映画『つる -鶴-』に主演し、映画出演は通算100作品となる。

1990年代以降の女優活動は映画のみであるが、CM出演・ラジオパーソナリティ、原爆詩の朗読などの平和への訴えや反原発について意見を述べるなどの活動を続けている。

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人物

女優として

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1965年
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赤玉ポートワイン、赤玉ハニーワインの広告(1967年)
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『日本文学全集』全39巻の広告(1967年)
  • デビュー以来、1960年代は「清純なお嬢さん」像を演じ続け、社命による「恋愛禁止令」も守ってきたが[9]、娘役から大人の女性への脱皮に苦戦した。日本映画の衰退期と重なり、演じる役柄がイメージに合わなくなり、テレビドラマにシフトし「東芝日曜劇場」や「NHK大河ドラマ」にも出演した。一時は体調も崩し、岡田との結婚に反対する両親との仲違いも報道されたりもした[9]。1975年(昭和50年)、『青春の門』を皮切りに「清純なお嬢さん」を脱する演技を披露した。1981年(昭和56年)の『夢千代日記』では、大人の女性としての内的情感を豊かに表現し、この時期から、評論家に演技力に難をつけられながらも、好意的な評価を受け始めた。
  • 男はつらいよ』シリーズでは二度歌子役で出演しており、平成に入り三回目の登場の構想もあったがスケジュールが合わず「それに、同じ役を何度もやると、私自身がマンネリになるんじゃないかと」も理由にあり、渥美清が1996年に死去しシリーズ終了後に「もう一度、出演するべきでした。最後ということが分かっていたらどんな形でも出たかった。後悔しています」と語っている[10]
  • 天国の駅 HEAVEN STATION』では自慰行為のシーンに挑み[11]三浦友和に押し倒され着物の胸に手を差し入れられるシーンでは、吉永の覚悟に三浦が圧倒されるほどだったが、ヌードになることは「胸が小さいから、出してもしょうがない」と発言し拒否した[12]
  • 舞台劇に出ない女優として知られており[13]、舞台未経験[注 1]である。2001年に東宝が『長崎ぶらぶら節』を帝国劇場で上演した際、松岡功岡田茂に「吉永さんを口説いてもらえんかい」と頼んだが「彼女は駄目だよ」と断られたという[13]

反戦・反原発・政治活動

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女性自身』1967年4月24日号の新聞広告。同年の東京都知事選挙において、吉永は社会党・共産党推薦の美濃部亮吉を支援[15]。週刊誌は吉永を美濃部を応援した芸能人の筆頭にあげた[16]
  • 広島を舞台にした『愛と死の記録』の出演や、『夢千代日記』で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。以後女優としての活動のほか、反戦[17]反核運動ライフワークとして力点を置いている[2]
  • 1967年4月に行われた東京都知事選挙では、社会・共産両党推薦の美濃部亮吉を積極的に応援した[15][16]。日本社会党の関連団体の財団法人社会新報は知事選に向けて同年3月、『わが愛する東京―革新都政に期待する』を出版。淡谷のり子小田実ら著名人27人がそれぞれ都政に対する思いを綴る中で、吉永は「前回の都知事選挙の時、私にはまだ選挙権がなかった。だから新聞を見ては、憤慨したり、驚いたりしたことを覚えている。今度こそは、私も一票を有効に生かしてと、張りきる気持ちが強い」と書いた[18]
  • 沖縄戦を扱った映画『あゝひめゆりの塔』(1968年)の共演者らと共にもんぺ姿で靖国神社に参拝した[19]
  • 1983年12月の衆議院議員選挙では、参議院議員を辞職して新潟3区から立候補した野坂昭如のために新潟まで行き、応援演説をした[20]
  • 1990年に出版された『女優ベスト150 わが青春のアイドル』(文春文庫)の中で、永六輔は、吉永が「原爆は勿論、原発もいりません 吉永小百合」という署名をしていたことに触れ、「ファンでよかったと嬉しく思った」と書いた[21]
  • 2002年、平和記念資料館に導入された音声ガイドのナレーションをボランティアで担当。
  • 2005年の第56回NHK紅白歌合戦では、山梨県からの中継で原爆詩を朗読した。
  • 2011年7月31日、広島国際会議場の原爆詩朗読会で「世の中から核兵器、原子力発電所がなくなってほしい」と訴えた。朗読会は日本母親大会の特別企画[22]
  • 2011年3月の福島第一原子力発電所事故後、反原発の姿勢を一層強めている[23]
  • 2014年2月に行われた東京都知事選挙では、脱原発を掲げた細川護熙の支持を明らかにした。吉永は、細川の公式サイトの「私たち、応援します」のコーナーに顔写真付きで登場し、コメントを寄せた[24]
  • 2014年5月7日、細川護熙と小泉純一郎は、脱原発を目指す一般社団法人「自然エネルギー推進会議」を設立。吉永は同団体の賛同人に加わった[25]
  • 2015年、元ちとせがリリースした、平和への祈りが込められた楽曲[注 2]で構成されたカバーアルバム『平和元年』の題字を書き下ろす[26]。これに関連して元は吉永と話す機会があり、吉永は「私は終戦と“同い年”です。皆さんに戦争から何年経ったかを忘れてほしくないから、年齢を公表しています」と告げられたという[26]

親族

  • 父の吉永芳之(鹿児島県出身)は、1910年、薩摩士族の末裔として鹿児島県に生まれた[27]。その後、旧制七高から東京大学法学部法律学科卒業、九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て、出版社「シネ・ロマンス社」を経営。飯島正双葉十三郎らと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗している。母の和枝は大阪に生まれ[28]兵庫県宍粟郡(現・宍粟市山崎町)で小学生の頃まで育ち[29]、「潮音」に所属する歌人であった。父は1989年に亡くなり、母は2005年に亡くなった[30]
  • 少女時代は裕福な環境ではなく、上記の父親の事業の失敗から、家の米びつに1粒の米もない日もあったという。小学校の時は借金取りが押し寄せたこともあった。それに見かねた彼女は「私、新聞配達をする」と言ったが、親に止められたとのこと。その後、ラジオ出演するにしたがって、家の生活も少しずつ楽になっていったという[31]
  • 外祖父の川田友之は、東京府士族で内務省職員、四条派書家の川田高之助の次男として生まれ、府や市の議員や英文出版社の大観社社長を務めた[32]。また叔母に『婦人画報』編集長、「アムネスティ・インターナショナル日本支部」の創設メンバーの川田泰代が名前を連ねるなど、執筆の世界とも所縁が深い。なお伯父の川田俊之(のち友之を襲名)は大観産業取締役、日本水泳連盟常務理事[33]。従兄はゴルフ評論家の川田太三(俊之の次男)である。
  • 遠縁に歌手の佐良直美がいる(佐良直美の母方の大伯父である山口彰夫の妻と、吉永小百合の母が姉妹同士)[34]。また、山本直純作曲家指揮者)の妻の山本正美も遠縁にあたる(山本正美の妹の夫の母が、吉永小百合の母のいとこの妻と姉妹同士)[34]
  • 1973年(昭和48年)28歳の時に15歳上のテレビプロデューサー岡田太郎と電撃結婚した[9]。夫の岡田は共同テレビジョンの社長・会長を歴任したが、2024年9月3日に死去[35]。岡田との間に子どもはいなかった。

趣味・好きなもの

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特記事項

サユリスト

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文藝』1967年1月号より
  • 吉永とともに青春時代を歩んだ世代のファンは特に「サユリスト」(『小百合』に『…主義者』や『人』を意味する英語の接尾辞『-ist』をつけた造語)と呼ばれ、団塊 - 70歳代にかけての世代に多く見られる。「サユリスト」を自認する者は邦画ファンや一般大衆はもとより、芸能人や著名人にも幅広く存在している[2]内藤陳は、呼び捨てをふくむこと自体が不敬であるとして「サユリサマスト」と呼ぶよう提唱しているが、ほとんど世間には浸透していない。
  • 「サユリスト」を自認するタモリは、同じく「サユリスト」として知られる野坂昭如を指して「あの人は一時、山口百恵に走ったが、俺は小百合サマ一筋」と述べたことがある。タモリと吉永は早稲田大学第二文学部に在学していた時期が重なっており(タモリが同い年の1学年下だが、入学年は同じ1965年。ただしタモリは3年で中退した)、学生食堂で吉永が食事しているのを偶然に発見した際、吉永の食べ残しを食べようか迷った末、思い留まったというエピソードがある。
  • 早稲田大学の後輩である元プロ野球選手小宮山悟も「サユリスト」の一人である。
  • 漫談家の綾小路きみまろも「サユリスト」を自認する人物の一人。また、吉永も綾小路のファンであり、吉永の主演映画『まぼろしの邪馬台国』では、吉永の希望によって綾小路に出演依頼を行い、綾小路は「サユリストの1人として是非」と快諾。なお、綾小路にとってはこれが実質的な俳優としてのデビュー作である。
  • ちなみに栗原小巻(誕生日は吉永の翌日である)のファンは、「コマキスト」と呼ばれた。

その他

  • 12〜13歳の頃、個人的にボイストレーニングのためにひばり児童合唱団に通っていたことがあり(団員ではなかったが、個人レッスンを受けていた)、その後皆川和子からの紹介で松竹からの映画デビューが実現した。
  • 吉永が歌い上げた『奈良の春日野』(「♪フンフンフーン 黒豆よ♪」の歌詞が特徴的)は、元々1965年(昭和40年)に発売されたシングル『天満橋から』(『第16回NHK紅白歌合戦』出場曲)のB面曲であったが、1987年(昭和62年)に明石家さんまがギャグとして取り上げたことから、レコードも再発売(A面を「奈良の春日野」に変更)されヒットした。
  • 15歳時、映画『天使が俺を追い駈ける』(1961年)出演の際に三木のり平とキスシーンを撮影、これが自身のファーストキスとなった[44] と1999年4月13日放送の『スタジオパークからこんにちは』(NHK総合)にて発言している。
  • 1962年3月31日から「ミラノ国際見本市」の中で、4月15日から4月19日まで開催された『ミラノ日本映画見本市』のため、4月10日、清水雅を団長として、川喜多長政奥山融、そして、他の映画会社各社代表女優の佐久間良子星由里子らと共に日活代表女優としてイタリアへ出発。岸惠子が日本からではなく現地参加でミラノで合流している。吉永は星と共に同国のヴェネツィアも訪れている。4月25日、帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なイタリア訪問となった。
  • 1963年にはナイフピストルを持った男に自宅の自室内で襲撃されている(犯人は吉永の熱狂的なファンだった)[45]。また、同年には合計7通の脅迫状が吉永の自宅に届いている(吉永小百合脅迫事件)。
  • 実現には至らなかったものの、1960年末期から幾度も『NHK紅白歌合戦』の紅組司会の候補に挙がった。
  • 吉永主演映画の原作者でもある川端康成石坂洋次郎といった作家にも寵愛され、川端は吉永に会いたいために山奥で撮影が行われていた『伊豆の踊子』のロケ現場を突然訪ね、石坂は吉永が演じることを想定して作品を綴り上げた。
  • 三波春夫の曲と思われがちの『世界の国からこんにちは』のレコードを、日本万国博覧会当時に出している(全部で7種類の歌い手による競作であった)。同博覧会開催の数年前に、この歌が初めてマスコミに発表された時も三波春夫ではなく吉永がその場で歌っている。また、松下電器産業が博覧会を記念して制作したタイムカプセルには、吉永が歌い上げたレコードが納められた。
  • 早稲田大学の女子学生をさす、バンカラで、男まさりで、活動的な「早稲女(わせじょ)」の代表的OGとしてしばしば吉永の名があげられる。
  • 早稲田大学第二文学部での卒業論文のテーマは「アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』におけるアテネ(アテナイ)の民主制について」であった。
  • 若本規夫は同時期に法学部に在籍しており、吉永を見に学生食堂へ行ったと回想している[46]
  • 冨士眞奈美吉行和子ら女優や文士も参加した句会では、吉永がまだ20代の頃に「今日はバレ句(色っぽい句)を詠みましょう」というテーマが出され、優等生・清純というイメージとは裏腹に「松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり」と詠み、秀逸作品(天・地・人、の天)に選出されている[12][47]
  • 和田アキ子と旅行した時に互いに写真を写し合いした際、和田の顔を眺めて吉永は「和田さんって、私と似てますね」と言ったという。和田はそのことを他人に自慢しても信じてくれないと自虐ネタにすることがある。
  • 長野県軽井沢町別荘があり、隣地が細川護煕の別荘であることなどが度々スクープされている。西武鉄道グループの当時のオーナーであり、吉永のファンでもあった堤義明から軽井沢の別荘を格安で買ったと報じられた(週刊文春2005年3月10日号)。吉永は「通常の売買契約に基づき行っております」と弁明している。また、オウチーノが2013年に20歳 - 69歳男女725名を対象として行ったイメージ調査によれば、「軽井沢の別荘に住んでいそうな有名人」として吉永の名が1位に挙がっている[48]
  • 水島新司の漫画『あぶさん』にも、1993年シーズンの開幕戦に西武球場に観戦に来るなど登場する。
  • 2023年10月25日、大阪市内で行われたスキンケアブランド「五島の椿」の新CM発表会に出席した際、嫌いな食べ物はこんにゃくと答えた。「プルプルして気持ち悪い」とのこと。健康に拘り好き嫌いの無いイメージであったため、報道でも意外の感を持たれた[49]
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受賞歴など

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2010年、文化功労者に選出された。
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出演

映画

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キューポラのある街』(1962年)
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あすの花嫁』(1962年)
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美しい暦』(1963年)
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『光る海』(1963年)。左から十朱幸代、吉永、和泉雅子
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泥だらけの純情』(1963年)
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若草物語』(1964年)。左から浅丘ルリ子、吉永、和泉雅子、芦川いづみ
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『恋のハイウェイ』(1967年)

劇場アニメ

テレビドラマ

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娘たちはいま』(TBS)

ドキュメンタリー

  • 国境のない伝記〜クーデンホーフ家の人びと[72](全4回、1973年3月[注 4]、NHK総合、構成・演出-吉田直哉、音楽-冨田勲、ドラマ脚本-茂木草介) - ドラマパート主演・青山みつ(クーデンホーフ光子)[注 5]・リポーター(欧州取材)
    • ミツコ 二つの世紀末(全5回、1987年5月 - 6月、NHK総合、構成・演出-吉田直哉、音楽-冨田勲) - リポーター(欧州取材)[注 6]
  • きみはヒロシマを見たか〜広島原爆資料館(1982年8月6日、NHK総合) - 語り
  • 夢を駈ける女〜馬のない名騎手・井上喜久子(1987年1月2日、日本テレビ) - 語り
  • 未来からの贈りもの〜この星を旅する物語(1995年3月`日、TBSテレビ) - 語り
  • ヒロシマ・ガールズ・50年目の夏 (1995年8月7日、フジテレビ) - 語り
  • 100ばんめのサル(1986年、株式会社シネマ・ワーク) - 語り[73]
  • 祈るように語り続けたい(1997年・1999年・2000年、NHK-BS2
  • NNNドキュメントチンチン電車と女学生 2003・夏・ヒロシマ」(2003年、広島テレビ) - 語り
  • 森光子放浪記」大いなる旅路(2005年5月22日、NHK総合) - 語り
  • 戦後60年特別企画「ヒロシマ」(2005年8月5日、TBSテレビ) - 朗読
  • 吉永小百合 言葉で平和を紡ぎたい(2007年8月9日、NHK総合)
  • 絶景・人情列島“寅さん”が旅したニッポン(2008年8月13日、テレビ東京) - 語り
  • 吉永小百合 被爆65年の広島長崎(2010年8月6日、NHK総合)
  • 証言 八十年目の真実 〜長島 そして ノルウェー〜(2010年11月28日、山陽放送) - 語り
  • NHKスペシャル「復活〜山田洋次SLを撮る〜」(2011年7月16日、NHK総合) - 語り
  • プロフェッショナル 仕事の流儀「吉永小百合スペシャル」(2019年10月26日、NHK総合)

インタビュー・対談・トーク

歌謡・音楽番組

バラエティー

  • 「ぷっ」すまスペシャル ぷっすまVS吉永小百合 芸能界“天国と地獄”(秘)ハズカシ固めSP!!(2000年9月22日、テレビ朝日)
  • 笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号(2014年3月31日、フジテレビ) - タモリへのプレゼンター
  • SMAP×SMAP秋の超豪華SP(2014年10月16日、フジテレビ)
  • ニノさんとあそぼ(2023年8月7日、日本テレビ) - 仲良しゲスト

テレビアニメ

ラジオ

ラジオドラマ

  • 赤胴鈴之助(1957年1月 - 1959年2月、ラジオ東京(現TBSラジオ))
  • まぼろし探偵(1959年2月 - 1960年10月、ラジオ東京)
  • 人の知らない花(1962年8月 - 9月、TBSラジオ)
  • お父さん!大好き(1962年9月 - 1964年3月、ニッポン放送
  • 小百合は大学一年生(1964年4月 - 1965年1月、ニッポン放送)
  • 白鷺の飛ぶ日に…(1965年4月、NHK第1
  • 二十歳(1966年1月、NHK第1)
  • 斜陽のおもかげ(1967年、文化放送
  • 銀のしずく降る降る(1983年6月、NHK第1)
  • マディソン郡の橋(1993年12月、ニッポン放送)

CM

舞台

  • 坂道-長崎、79年目の夏(2024年8月14日 - 18日、六行会ホール) - 朗読(声の出演)[81]
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ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

さらに見る #, 発売日 ...
その他のシングル
さらに見る 発売日, A/B面 ...

アルバム

ビクターレコード

  • 吉永小百合ヒットソング(1962年)
  • 小百合とあなた(1963年、JV-5089)
  • 小百合ちゃんの夢のピアノ・アルバム(1965年、SJV-92)
  • 吉永小百合リサイタル〜詩人〜(1966年、SJV-213)
  • 吉永小百合ベストヒット 愛の世界(1967年)
  • 吉永小百合とともに(1967年、JV-256/57-S) - ライブ・アルバム
  • ふるさとのおもちゃの唄(2007年)
  • 吉永小百合映画歌謡曲(日活編)(2008年 )- 日活映画に残した歌声を映画音源から収録(全67曲)
  • 吉永小百合ベスト100〜いつでも夢を、いつまでも夢を〜(2012年)

タイアップ

さらに見る 年, 楽曲 ...
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NHK紅白歌合戦出場歴(歌手として)

さらに見る 年度/放送回, 回 ...
  • 第14回、第16回、第17回は吉永の歌の映像が現存する(第16回はカラー映像)。
  • 第13回、第15回は吉永の歌のラジオ中継の音声が現存する。

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
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朗読CD

  • 第二楽章(1997年) - 広島の原爆詩を朗読
  • 第二楽章・長崎から(1999年)
  • 第二楽章・沖縄から「ウミガメと少年」(2006年) - 野坂昭如の戦争童話集を朗読
    • 『第二楽章 : ヒロシマの風』(男鹿和雄画、角川文庫、2000年)
    • 『第二楽章長崎から : 画文集』(男鹿和雄画、講談社、2000年)がある
  • 第二楽章・福島への思い(2015年)

関連文献

著書

  • 『こころの日記』(講談社、1969年)
  • 『夢一途』(主婦と生活社、1988年 / 集英社文庫、1993年)※自伝
    新版「人間の記録122」(日本図書センター、2000年)
  • 『吉永小百合 街ものがたり』(講談社、1999年 / 講談社+α文庫、2003年)
  • 『旅に夢みる』(講談社、2003年)※紀行エッセイ
  • 『SAYURI 吉永小百合アルバム』(マガジンハウス、2004年)
  • 『夢の続き』(世界文化社、2007年 / 集英社文庫、2012年)

共著

共著者は井筒和幸井上ひさし香山リカ姜尚中木村裕一黒柳徹子猿谷要品川正治辛酸なめ子田島征三中村哲半藤一利ピーコ松本侑子美輪明宏渡辺えり子
多くが九条の会に賛同。
  • 早川敦子『吉永小百合、オックスフォード大学で原爆詩を読む』(集英社新書、2012年)
  • 岸惠子との対談『歩いて行く二人』(世界文化社、2014年)
  • 『私が愛した映画たち』(集英社新書、2018年)、立花珠樹(映画記者)取材・構成

編集

  • 『ヒロシマの風 伝えたい、原爆のこと』(角川つばさ文庫、2014年)
  • 『ナガサキの命 伝えたい、原爆のこと』(角川つばさ文庫、2015年)
  • 『吉永小百合の祈り』(NHKアーカイブス制作班共編、新日本出版社、2015年)

写真集(21世紀刊)

  • 『SAYURI 吉永小百合アルバム』(マガジンハウス、2004年) - 和田誠
  • 『吉永小百合プロマイド写真集 永遠の輝き』(講談社、2012年) - 自選のマルベル堂モノクロ写真集
  • 『吉永小百合 青春時代写真集』日活編(文藝春秋、2024年) - 自ら監修

伝記ほか

脚注

関連項目

外部リンク

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