トップQs
タイムライン
チャット
視点

松本典子

日本の女性タレント、歌手 ウィキペディアから

Remove ads

松本 典子 (まつもと のりこ、1968年〈昭和43年〉1月30日[1][4] - ) は日本のタレント歌手女優司会者[5]ノーリーズン所属。

概要 まつもと のりこ 松本 典子, 本名 ...
概要 プロフィール, 愛称 ...
Remove ads

概要

アイドル全盛期のさなかの1985年、17歳でアイドル歌手としてデビューした[1]。当初は正統派アイドルであったが、19歳の頃からコント番組『志村けんのだいじょうぶだぁ』に番組開始当初からレギュラー出演し、主にコメディエンヌとして活動した[6][7][8]

1992年、24歳での結婚を機に休業状態であったが、2024年から芸能活動を再開した[9]

来歴

要約
視点

生い立ち

1968年1月30日、自動車関係の会社員であった父と福祉関係の公務員であった母の下、東京都武蔵野市の病院で生まれる[10]。本名の「美和子」は「しくいつまでも平であるように」という意味を込めて名付けられた[11]。3歳の時に三鷹市から調布市深大寺へ、5歳の時に昭島市へ移った[11]。父の転勤により中学3年の時に群馬県伊勢崎市に転居。中学ではテニス部、転校先ではブラスバンド部に所属した[12]。中学時代は高校野球が好きで野球部のマネージャーに憧れたが、結局は制服の可愛さが決め手となって女子高の共愛学園高等学校に入学した[13]。両親からは大学進学を勧められていたが、本人は「早く結婚したかった」という理由で就職希望であった[14]

オーディション

1984年7月28日に東京厚生年金会館にて開催された第5回「ミス・セブンティーンコンテスト」(応募総数18万325人[3])の決戦大会にて網浜直子とダブルでグランプリを獲得した[12]。コンテストには姉の勧めで応募した[14]。審査員面接では、不合格なら地方公務員か電話交換手を目指すと答えた[15]。ミス・セブンティーン以前にも、石川秀美が優勝した「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」や「ホリプロタレントスカウトキャラバン」、サンミュージックのオーディションを受けており[16]、サンミュージックのレッスン生同期に桑田靖子がいた[17]。親は厳格で、レッスン生を途中で辞めさせるなど芸能活動に理解を示さなかったが、千昌夫小林幸子ら有名演歌歌手が所属する第一プロダクションに所属が決まったことから芸能界入りを認めた[18]

アイドル時代

1985年3月21日、CBS・ソニーから『春色のエアメール』でアイドル歌手としてデビュー[19]。同年公開のシブがき隊主演映画『バロー・ギャングBC』に出演した[1]。ニックネームは「のりりん」、本名の佐藤美和子にちなんだ「サミー[12]。デビュー時のキャッチフレーズは「とどくかな、笑顔。」で、郵政省の「タイムカプセル2001」とタイアップした[20]。松本のプロデュースを担当したのは松田聖子を発掘した若松宗雄で、松田に続く歌手が欲しいという若松の意向で、松田聖子の"松"と"子"、当時のソニー社長の大賀典雄の"典"を取って芸名が付けられた[21]南野陽子の担当ディレクターであった吉田格は、当時のCBS・ソニーで同時期に売り出したアイドルでは南野が三番手、網浜直子が二番手、松本が一番手であったと語っている[22][23]ウォークマンやラジカセなどのソニー製品のカタログキャラクターにも起用された[24]

同期デビューは浅香唯斉藤由貴中山美穂本田美奈子南野陽子らで、アイドルシーン第二次黄金期とも称されるハイレベルな顔ぶれであった[25]。85年の新人賞レースでは中山美穂・本田美奈子・芳本美代子らと激戦を繰り広げ、数多くの新人賞を受賞した[26]。甘いルックスの正統派アイドルであったが、歌声は意外と骨太で、1stアルバム『Straw Hat』のオープニング曲「いっぱいのかすみ草」は名曲との評価が高い[27][28]。繊細な表現力を発揮し、数多の松田聖子フォロワーのアイドルとは一線を画した[29]。その後バラエティ番組でも活躍したが、アイドル・シンガーとしても大きな足跡を残した[27]

コント・バラエティでの活躍

アイドル活動の傍ら、1986年開始のラジオ番組『キラキラサンデー アイドルじゃじゃうまランド』では同期の浅香唯と漫才コンビをしのぐトークを披露し、正統派アイドルにとどまらない一面を見せた[8][30]。その多面性を買われ、1987年開始のフジテレビ系のコント番組『志村けんのだいじょうぶだぁ』にレギュラー出演し、志村けんらと息のあったコントを披露。いしのようこと共に二枚看板となった[6]。『ドリフ大爆笑』『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』など他のコント番組でも本領を発揮した[7]

結婚・休業後の活動

1992年に当時ヤクルトスワローズの内野手だった笘篠賢治と結婚した[1][31]。結婚後は主婦業と子育てに専念し休業したが、夫とトーク番組にゲスト出演することもあった。

結婚を機に休業状態であったが、2011年8月に『J-POP青春の'80』収録に出演し、NHK BSプレミアムにて9月8日に放送された。「儀式(セレモニー)」を歌い、19年ぶりに歌手として復帰した。2013年9月11日に日本テレビ1番ソングSHOW』の「今いちばん見たい!幻のアイドル大捜索スペシャル!」にて10年ぶりに地上波テレビ番組に出演した。

2018年4月29日には週刊誌『FLASH』にて20年ぶりにグラビアに登場し「歌は好きなので、また聴かせられたらいいなと思っています」と述べた[32]。2019年12月15日に文化放送『スポスタ☆MIX ZONE』にて26年ぶりにラジオ出演した[33][34]

芸能界復帰

2024年、芸能活動を再開した[9]。普段は保育園で保育補助の仕事に従事している[35]

2025年10月9日、10月10日の2日間、デビュー40周年を記念してのライブ、40th Anniversary【ID85】を同期デビューの芳本美代子、網浜直子と東京:座・高円寺2にて開催予定。

Remove ads

人物

家族構成

エピソード

事務所同期の森口博子は、自身の不遇を表すエピソードとして度々松本の名前を挙げている[39][40]

1989年4月からニッポン放送で『ラジオビバリー昼ズ』がスタートするのにあたり、メインパーソナリティの高田文夫は「優秀さを買って」アシスタントに松本典子をと伝えていたが、スタッフの聞き間違いもあって、本番直前のスタジオには松本が入っており、そのまま松本明子が正式にアシスタントとなった。1992年7月から日本テレビでスタートした『進め!電波少年』でも、総合演出の土屋敏男は上司から「(MCは)松本明子と松村邦洋で行け」と言われたが、元々MCのキャスティングとして松本典子が想定にあったと話している[41][42]

音楽

シングル

さらに見る #, 発売日 ...

アルバム

オリジナル・アルバム

ミニ・アルバム

ベスト・アルバム

さらに見る 枚, 発売日 ...

ライブビデオ

さらに見る 枚, 発売日 ...

タイアップ曲

さらに見る 楽曲, タイアップ ...
Remove ads

出演作品

テレビ番組

テレビドラマ

映画

ラジオ番組

CM

Remove ads

著書

  • にんじん倶楽部』近代映画社、1986年11月10日。

写真集

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads