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NOBODY (ロックバンド)

相沢行夫と木原敏雄による日本のロックバンド。 ウィキペディアから

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NOBODY(ノーバディ)は、日本ロックバンド[1]

概要 別名, 出身地 ...

矢沢永吉のバックメンバーを担当していた相沢 行夫(あいざわ ゆきお)と木原 敏雄(きはら としお)の2名で構成されている[3]

メンバー

相沢 行夫(あいざわ ゆきお、1949年10月19日 - )

北海道芦別市出身[3]神奈川大学卒業。血液型AB型。妻は作詞家竜真知子

神奈川大学在学中にアマチュアバンド「イーグルス」で活動し[3]、いくつかのバンドを経て、1973年にフォーク・ロック・バンド「ノラ」を結成[3]。 1975年の矢沢永吉のソロ・デビュー・シングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」で作詞を担当、その他「ウイスキー・コーク」「恋の列車はリバプール発」で作詞家デビューとなる[3]

木原 敏雄(きはら としお、1949年11月25日 - (2025-03-25) 2025年3月25日(75歳没)

神奈川県川崎市出身[3]明治大学卒業[4]。血液型O型。

明治大学在学中、高校のクラスメイトの紹介で矢沢と知り合い、「ザ・ベース」「E-SET」「YAMATO」を結成し活動する中[3]、1969年、神奈川大学の学園祭に「イーグルス」として出演していた相沢と出会う[3]。1977年、矢沢のアルバム『ドアを開けろ』に収録されている「世話がやけるぜ」と「通りすがりの恋」で作詞を担当し作詞家デビューとなる[3]

2025年4月3日、3月25日に死去したことがオフィシャルサイトで公表された[5][6][7]

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経歴

要約
視点

元々二人とも別々のバンドを組んで活動していたが、時代の流れとともに解散[8]。1975年、先に相沢が加入してバンド・マスターとなり、遅れて木原が加入[8]し、ともに矢沢永吉のバックメンバーとなる[3]

1976年より、矢沢のコンサートツアー及びアルバムのレコーディングに参加し、通称「矢沢ファミリー」と呼ばれる固定メンバーとして活動する。

2人ともアマチュア時代にはバンドで歌っていたこともあり、1977年頃から「俺も歌いたい」という気持ちが次第に芽生え、バックミュージシャンではなくアーティストとして活動を望むようになっていた[8]が、矢沢の年間100本を超えるコンサート・ツアーをこなしている彼らに時間的余裕はなかった[8]

1981年、矢沢が渡米し活動拠点をアメリカに移したことにより矢沢ファミリーは解散。時間的余裕はできたものの「このままでは食えなくなる」と、二人は先のことを考え、同年10月に予てから構想のあったNOBODYを結成する[8]。「バックミュージシャンをやめるために、木原と二人で『NOBODY』を作ったんです。バックミュージシャンにだけは死んでも戻りたくなかった」と相沢は後に語っている[8]

オリジナルのデモテープを小脇に抱え、レコード会社に売り込むため歩き回る[8]。その中の1曲が1981年12月にリリースした、HOUND DOGの「浮気な、パレット・キャット」(ユニットとして初の楽曲提供[3]、後に英語詞でセルフカバー)で、この曲のヒットにより注目され、[8]ソング・ライターとしての足掛かりを掴んだ。

1982年6月TDKコアのTDK RECORDSレーベルからアルバム『NOBODY』とシングル『MY ROAD SHOW』を同時リリース[3]。1983年公開の映画『里見八犬伝』では音楽を担当し、その後アン・ルイス吉川晃司浅香唯など様々なアーティストへの楽曲提供のほか、サウンドプロデュースを行いヒットメーカーとしても活躍する。

1985年アニメ雑誌月刊ニュータイプ』のメディアミックスの一環として結成された覆面バンド「ピンク・クロウズ」のサウンドプロデュースを担当した。相沢は「アニメソングとして制作したのでとてもやりやすかったし、とても楽しかった」とした一方で、印税は担当プロデューサーにすべて振り込まれていたため、ほぼただ働き同然の状態だったという[9]

1986年、レコード会社を東芝EMIのEASTWORLDレーベルに移籍。シングル1枚とアルバム3枚を発表後、1988年にハミングバードへ再度移籍した。

1992年WEA MUSICに移籍し、デビュー10周年記念アルバム『BAD RHYME』を発表。当初は、1993年春に海外デビューの計画があったものの、フェードアウトした形で立ち消えになったという[10]。このことについて相沢は、レコード会社に不信感を持っていると語っている[10]

1994年NO NO BOYS名義で、ファンハウスに移籍。相沢は別名義になった経緯に関して、当時の記憶が薄いとしたうえで「レコード会社がなかなか売れないNOBODYを、苦肉の策で『とりあえず別名義でやってみるか』という感じだったかな」と語っている[9]

1996年ポリスターに移籍。日本テレビ系『WIN』のテーマソングである「DREAM 〜夢の中で」と「YOU GOT TO WIN」を発表。起用された経緯として、メンバーの知り合いであり、番組のMCとして出演していた小倉淳(当時・日本テレビのアナウンサー)の依頼で制作したという[9]。7月25日にこの2曲が収録されたシングル「DREAM 〜夢の中で」[11]が、ポリスターから唯一発表した作品としてリリースされた。

その後も矢沢との盟友関係は続き、1996年12月13日の日本武道館公演(WILD HEART TOUR)のほか、1999年9月15日の横浜国際総合競技場(TONIGHT THE NIGHT!)でサディスティックスのメンバーらとコンサートにゲスト出演。2002年8月に東京国際フォーラムで行われたアコースティック・ライブには、相沢がギターで参加。2006年8月には矢沢・相沢・木原の3人によるアコースティック・スペシャル・ライブを、矢沢のファンクラブから抽選で招待した会員約70名の前で行い、インターネットで生配信された。2007年12月19日には、矢沢の日本武道館公演(102回目)のアンコールにゲスト出演し、二人も参加した矢沢初の日本武道館公演(1977年8月26日)の1曲目「カモン・ベイビー」を演奏した。

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ディスコグラフィ

シングル

NOBODY名義

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NO NO BOYS名義

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アルバム

スタジオ・アルバム

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ベスト・アルバム

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ライブ・アルバム

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セルフカバー・アルバム

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コンピレーション・アルバム

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その他

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タイアップ

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参加楽曲

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主な提供楽曲

あ行

か行

さ行

た行

な行

は行

ま行

や行以降

  • 矢沢洋子
    • SUGAR!SUGAR!!SUGAR!!!(作曲)
  • 柳ジョージ
  • 山下久美子
  • 山本達彦
    • MIDNIGHT HARBOR(作曲・編曲)
    • LAST SHOW(編曲)
    • MAGIC(編曲)
    • MRS. SNOW(編曲)
    • SUNSET BLUE(作曲)
    • I LOVE YOU SO(編曲)
    • 24-2689(作詞・作曲・編曲)
    • MARIANNE(作曲・編曲)
    • 摩天楼ブルース(編曲)
    • GOOD NIGHT SWEET HEART(作曲・編曲)
    • WITHOUT YOUR LOVE(作曲・編曲)
    • JAMAICAN DREAM(編曲)
    • パシフィック・ブルー(編曲)
    • さよならは言わない(作曲・編曲)
    • WELCOME TO MY PARTY(作詞・作曲・編曲)
    • TO FAR AWAY(作曲)
    • MY MARINE MARILYN(作曲)
    • HIS WOMAN(作曲)
  • ROMY
    • LOVEコマーシャル(作曲)
    • Mom And Me(作曲)
  • ロブバード
    • 東京レイニーナイト(編曲)
    • DOWN DOWN DOWN(作詞・編曲)
    • 8月の浜辺(作詞・編曲)
    • タイトロープ(作曲・編曲)
    • ダイナマイト(編曲)
    • HANADO(作曲・編曲)
    • エリナ(作曲・編曲)
    • サンセットドリーム(作曲・編曲)
    • ラストシーン(作曲・編曲)
    • 遥かホームタウン(作曲・編曲)
    • SNOW-SONG(作詞・編曲)
  • 和久井映見
    • Count Down Moon(作曲)
  • 渡辺謙
    • 夢のように(作曲)
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関連項目

脚注

外部リンク

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