トップQs
タイムライン
チャット
視点
浜浦徹
日本のプロ野球選手 (1952-) ウィキペディアから
Remove ads
浜浦 徹(はまうら とおる、1952年8月22日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手(投手)。
NPBとMLBによる史上初の日米間の国際トレードを経験した。
Remove ads
来歴・人物
要約
視点
津久見高では3年次の1970年、春の選抜にエースとして出場。1回戦で米子東高に完封勝利したが、2回戦では千葉商の永島時郎(日本通運)、高浦美佐緒のバッテリーに抑えられ惜敗[1]。同年夏の甲子園予選は故障で登板できず、中九州大会決勝で、エース小川清一を擁する大分商に敗退。1学年下のチームメートに橘健治、岩井隆之がいた。
同年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団し、1年目の1971年にはアリゾナキャンプでメジャーリーガーを相手に物怖じせず、速球を投げる姿に一躍首脳陣は大喜びした。「さすが金の卵。今年の新人王の最有力候補」と騒がれ、濃人渉監督の構想にも「シーズン初めはファームでじっくり育てて、投手がばててくる夏場には一軍に上げよう」と浜浦の名は刻み込まれたほどであったが、浜浦はキャンプの構想より早いピッチで一軍再登板を目前にし、イースタン・リーグで2勝をマーク。勢いに乗って4月18日の東映戦(後楽園)で初登板を果たすが、リリーフに出た1イニングだけで2安打1失点と打ち込まれた。5月下旬の練習中に右肘を痛め、ファームで再調整となり、コントロールと変化球のレパートリーを増やす特訓を受けた。「もう大丈夫です。カーブだってストライクを取れる。スライダーもシュートも放れます」という浜浦に中西勝己二軍投手コーチも「ナイターなら一軍でも速球とカーブで5回ぐらいなら持つだろう」と見ていた矢先の右肘痛で、3週間休んで鍼治療とマッサージを受けた。実戦復帰となったイースタンのヤクルト戦ではコントロールがなくなり、また腕が縮んだ。その後は3連勝し、通算5勝0敗という好成績で再び大物ぶりを見せ、5勝目を飾った8月24日の巨人戦(宇部)では、立ち上がりに2本の本塁打を打たれたが、3回から立ち直って見事な完投勝ちを挙げる。ジュニアオールスターにも出場するが、一軍登板は1試合だけであった。
同年10月のアリゾナ教育リーグで渡米して好投[2]。試合を見ていたマイナーリーグ3Aフェニックス・ジャイアンツ関係者に高評価され[2]、ブルペンでピッチングしているところは、メジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツ関係者が一目惚れした[3]。
2年目の1972年春にサンフランシスコ・ジャイアンツに野球留学していた際、ジャイアンツがロッテに譲渡を申し入れる。ロッテ側は交換トレードなら応じると回答したことから、初の日米間の交換トレードとしてフランク・ジョンソンとの交換でフェニックス・ジャイアンツに移籍[2]。大洋から移籍した高橋重行とチームメイトになり、現地では同じアパートで暮らした[2]。アメリカでは1Aフレスノに所属し、奪三振王に輝き2年連続で10勝した。
その後は1974年に太平洋クラブライオンズへ移籍し、日本球界に復帰した。太平洋クラブ入団時は長髪にサングラスという風貌で、本人曰く「当時はアメリカかぶれしていた」という[4]。速球に威力があり先発陣の一角として起用され、8月29日の日本ハム戦(神宮)で初勝利を挙げたが、浜浦は6回から救援を仰いだ田中章のピッチングに一喜一憂した。6回表一死から白仁天に2ラン本塁打を喫して降板したにもかかわらず、ベンチから出ようともせず、ゲームを見つめ通しであった。7回には1点差に追い上げられて初勝利が危うくなると、ベンチで落ち着かなくなり、稲尾和久監督から「少しはジッとして座っとらんか」と怒られる始末であった。8回に梅田邦三の適時打が出て勝利が決定的となった瞬間、喜んだ浜浦は思わずベンチの天井に頭をぶつけてしまった。同年の日米野球では太平洋・巨人連合チームの一員として試合に出場。11月16日の第15戦(平和台)に3番手で登板し、ニューヨーク・メッツを相手に見事勝利投手となった。
右オーバースローからのストレート、カーブ、スライダー、チェンジアップを武器としたが、その後は制球力に課題があって伸び悩む。球団が西武に変わった1979年は開幕から二軍暮らしが続き、8月22日の近鉄戦(日生)でシーズン初登板を果たすも、2イニングを投げてクリス・アーノルド、梨田昌孝、栗橋茂に本塁打を浴びるなど自責点5であった。同27日の日本ハム戦(西武)では、投手でありながら野村克也の代走として起用されると、その後も同30日のロッテ戦(西武)では長谷川一夫、9月9日の阪急戦(西武)でも再び長谷川の代走として出場した。本職の投手としては、チームが一方的にリードされた展開での登板に限られた。この年は、6試合のみの登板も全ての試合で失点し、投球回数12イニングを上回る14失点で自責点は11であった。1980年は7月1日のロッテ戦(西武)で投手でありながら田淵幸一、同27日の南海戦ダブルヘッダー第1試合(大阪)でも大田卓司の代走として起用され、浜浦自身6年振りとなる得点も記録。本職の投手としては、8月1日の南海戦(西武)でシーズン初登板するが、4番手として4点リードされた7回から登板も2失点し1イニングで交代。続く同11日の日本ハム戦(後楽園)では3番手として5点リードされた7回から登板するが、7回、8回にそれぞれ1失点し、防御率は12点台まで悪化し二軍へ降格。そのままシーズンを終え、この年限りで西武を退団。
1981年に古巣・ロッテに復帰するが、一軍登板の機会はなく同年限りで現役を引退。
Remove ads
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更
背番号
- 14 (1971年)
- 19 (1974年 - 1977年)
- 13 (1978年 - 1981年)
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads