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清俊彦

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清 俊彦(せい としひこ、1945年9月3日 - 2017年11月15日[1])は、宮崎県児湯郡新富町[1]出身のプロ野球選手投手)・解説者

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

7歳上の兄から野球の指導を受け、中学時代は1年生から登板し2年生でエースとなる[2]

高鍋高校では1年次の1961年に控え投手として夏の甲子園に出場し、秋田商との1回戦でリリーフに起用されるが0-1で敗退[3]。同年秋からエースとなり、秋季九州大会決勝で鹿児島玉龍高を完封し優勝。

1962年には春の選抜に出場するが、1回戦で中塚政幸のいるPL学園に敗れる[4]。同年夏は県大会決勝で宮崎大淀高に0-1で惜敗。

1963年夏も同じく県大会決勝で高橋博小川亨のいる宮崎商に敗れた。

1964年西鉄ライオンズへ入団し、若林忠志ヘッドコーチの指導でコントロールを付ける。二軍戦では2ヶ月で5勝を挙げ、一軍で11試合に先発するが、安定感を欠いた[2]

1965年は主に中継ぎとして起用された。同年は夏場に急性肝炎を発症し、一時入院している[2]

1966年には稲尾和久の衰えもあり先発陣に加わると、開幕から好調を維持。6月12日近鉄戦(小倉)でノーヒットノーランを達成する[2]が、シーズンでは5勝止まりに終わる。

1967年はリリーフ中心に活躍するも、4勝と今一つ伸び悩む。

1968年高木喬菊川昭二郎とのトレードで近鉄バファローズへ移籍し、1年目から先発4番手に食い込み6勝を挙げる。

1969年に18勝を記録し、最高勝率のタイトルも獲得。

1970年にはオールスターゲームに出場した。解説者の佐々木信也に「日本で一番フォームがきれいな投手」と評され[5]、その後も高い制球力を武器に、3年連続で2桁勝利を記録するなど、鈴木啓示に次ぐ右のエース格として活躍。

1972年にはチーム最高で自己最多の19勝を挙げ、8月に16日東映戦(日生)、22日の西鉄戦(日生)、27日南海戦(伊勢)と3試合連続完封も記録[6]し、最優秀防御率のタイトルを獲得した[2]

1973年は成績が急降下し、自身の故障や太田幸司井本隆など若手投手の台頭もあって徐々に出番が減るが、若手の梨田昌孝とバッテリーを組み、梨田に配球の妙を教えた[2]

1976年には阪神タイガースに金銭トレードで移ったが、シーズン半ばで現役を引退[2]

引退後はラジオ大阪近鉄バファローズナイターOBCビッグナイター」、KBS京都エキサイトナイター」解説者を務めたが3年目終了後は更新がなく、会社員となり、その後は西鉄時代の同僚・甲斐和雄が経営する資格教材製作会社に勤めていた[2][7]

2017年11月15日午後4時24分、肺炎のため埼玉県狭山市の病院で死去。満72歳没[1]

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詳細情報

年度別投手成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

記録

初記録
  • 初登板:1964年6月9日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム)、5回裏に4番手で救援登板、2回無失点
  • 初奪三振:同上、5回裏に穴吹義雄から
  • 初先発・初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1964年6月12日、対東映フライヤーズ6回戦(明治神宮野球場
  • 初セーブ:1974年4月7日、対南海ホークス前期2回戦(大阪スタヂアム)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 37(1964年 - 1967年)
  • 14(1968年 - 1975年)
  • 12(1976年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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