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矢沢正
日本のプロ野球選手 (1948-) ウィキペディアから
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矢沢 正(やざわ ただし、1948年8月2日 - )は、愛知県名古屋市昭和区出身の元プロ野球選手(捕手)・解説者。
概要・人物
中京商業高校では3年次の1966年、エースの加藤英夫(近鉄)とバッテリーを組んで甲子園春・夏連覇を達成。同級生では他に平林二郎(阪急)、伊熊博一(中日)がプロ入りしている。同年の第2次ドラフトで広島カープから2位指名されるも交渉権放棄となり、同年にドラフト外で読売ジャイアンツへ入団。
1970年6月4日の中日戦(中日)で初出場を果たし、吉田孝司の2番手で試合途中からマスクを被ったが、谷沢健一とジョン・ミラーに盗塁を許した。
1973年には森昌彦・吉田らに次ぐ3番手捕手の座を確保し、8月7日の大洋戦(川崎)では初安打・初打点を含む2打数2安打2打点をマーク。翌8日の試合でも初二塁打を含む3打数2安打1打点を記録したが、同年に挙げた3打点はこの2日間で挙げたものである。チームは前人未到のV9を達成した年であったが、南海との日本シリーズでは出番が無かった。
1974年5月10日の中日戦(中日)で伊藤久敏から8年目での初本塁打を放ち、7月17日の中日戦(後楽園)では鈴木孝政から2号本塁打を記録し、同年に放った4本中2本は中日戦からである。
1975年には正捕手として自己最多の100試合に出場し、6月16日の広島戦(後楽園)で唯一の盗塁、8月8日のヤクルト戦(後楽園)では唯一の三塁打を放った。自己最多の70安打、11二塁打、7本塁打、34打点、打率.254といずれもキャリアハイの成績を残したが、同年のチームは長嶋茂雄監督1期目の1年目で2020年現在も唯一の最下位に終わった。冷静沈着なプレーを持ち味とし、小柄な体格に似合わない長打力を発揮したほか、堀内恒夫との好相性を買われ、堀内が先発の時はしばしばマスクを被った。
1976年には吉田の2番手となり、阪急との日本シリーズでは7戦中4戦に出場し、10月27日の第3戦(西宮)と同29日の第4戦(西宮)では先発マスクを被った。
1977年は9月4日のヤクルト戦(後楽園)で安田猛から最後の本塁打を放ち、10月2日の中日戦(後楽園)が最終出場で最後の安打を放った。
1978年引退。
引退後は運動具メーカーに勤務する傍ら、江川事件の影響でキャンプやオープン戦に参加できない江川卓のトレーニングパートナー[1]、日本短波放送「たんぱストレートナイター」解説者を務めた。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
背番号
- 41 (1967年 - 1973年)
- 12 (1974年 - 1978年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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