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木村竹志

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木村 竹志(きむら たけし、1961年7月10日 - )は、和歌山県有田市出身の元プロ野球選手投手)、監督実業家。株式会社ヘルサー代表取締役、NPO法人和歌山野球振興協会・夢クラブ理事長、公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)理事[1]

概要 基本情報, 国籍 ...

本名同じ。旧本名並びにプロ野球選手・独立リーグ監督時の登録名は石井 毅(いしい たけし)。

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来歴・人物

要約
視点

選手時代

箕島高校では1年生秋にアンダースローへ転向してエースとなる。嶋田宗彦(のち阪神)とバッテリーを組み、1979年には甲子園連覇を達成した。特に夏の選手権大会3回戦では星稜高校延長18回の名勝負を繰り広げた。甲子園では通算14勝。

卒業後、嶋田と共に社会人野球住友金属へ入団。第53回都市対抗野球大会で優勝し、自身も橋戸賞を受賞した。

1982年度プロ野球ドラフト会議西武ライオンズに3位指名され契約金6000万円、年俸580万円(金額は推定)で入団した[2]。プロ入り後は腰痛が原因で、十分な成績を残すことが出来ず、1984年アメリカ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学した。1988年限りで引退。

引退後

引退後は夫人の実家である木村家の養子となり、姓名判断により現在の名前に改める[3]。故郷・和歌山で少年野球指導で活躍。2003年12月24日、和歌山野球振興協会・夢クラブを設立し、同協会が運営する「和歌山スポーツアカデミー」理事長をつとめ、その他様々な協会・委員会に名を連ね、青少年の育成に努める。

2007年11月、夢クラブなど3つのNPOが協力してプロ野球独立リーグ)への参加を目指すクラブ野球チーム紀州レンジャーズ2009年より関西独立リーグに参加)の設立構想が明らかとなり、12月3日に設立準備委員会が記者会見を開いて構想を発表した[4]。木村は設立準備委員会の委員長を務めることが明らかにされた。2008年にチームが発足すると監督に就任。6月、チームの運営会社となる株式会社紀州レンジャーズの取締役球団代表に就任することが発表された。11月、翌年のプロ化へ合わせ、監督は藤田平に交代し、球団代表専任となる。

2009年6月17日、関西独立リーグの運営会社「株式会社ステラ」の撤退に関連して、新たに設立されたリーグ運営会社「株式会社関西独立リーグ」の代表取締役に就任したが、8月10日三重スリーアローズ代表の壁矢慶一郎に交代することが発表された。しかし、壁矢は選手の待遇方針をめぐる意見の相違を理由に10月2日に代表を辞任(三重球団もリーグを脱退)したため、10月5日に木村が代表代行に就任することが発表された。リーグの代表は今後外部から招聘するとしていた。2010年3月に、鳥居厚生が代表となったがそのシーズン限りで退任、以降は木村がリーグ解散まで代表を務めていた。

2009年12月4日、退任した藤田の後任として監督に復帰することが発表された。監督としての登録名は旧名の「石井毅」となった[5]。2013年のリーグの解散まで監督を務めた。

その後、2013年に兵庫ブルーサンダーズが進めようとした芦屋学園との提携にリーグ代表として木村が反対したことから、関西独立リーグはその年限りで解散した。

2014年には、第2回 IBAF 15Uワールドカップ日本代表でコーチを務めた。背番号は31

2015年1月30日日本学生野球協会より学生野球指導資格の回復認定を受けた[6]

2018年8月6日第100回全国高等学校野球選手権記念大会2日目・第1試合の開始直前にて、甲子園レジェンド始球式を務める[7]。そのエスコート役として、星稜高校元エースで同試合球審担当の堅田外司昭も参加した[8]

横浜DeNAベイスターズ中川虎大は親戚にあたり(中川の母といとこ同士)、自身の母校である箕島高校からプロ入りしている。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

背番号

  • 32 (1983年 - 1988年)
  • 33 (2010年 - 2013年)

登録名

  • 石井 毅 (いしい たけし、1983年 - 1988年、2010年 - 2013年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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