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箕島対星稜延長18回

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箕島対星稜延長18回(みのしまたいせいりょうえんちょう18かい)は、1979年8月16日阪神甲子園球場で行われた第61回全国高等学校野球選手権大会の3回戦における和歌山代表和歌山県立箕島高等学校(以下、箕島高校、箕島)対石川代表星稜高等学校(以下、星稜高校、星稜)の試合を指す。

概要 星稜, 箕島 ...

延長18回、試合時間は3時間50分の熱戦で、劇的な試合展開故のテレビ中継における視聴率の高さや関連する書籍も多く、高校野球史上最高の試合とされる[1]

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概要

箕島はこの年春の第51回選抜高等学校野球大会で優勝しており史上3校目、公立高校としては初の春夏連覇がかかっていた。戦力も石井毅嶋田宗彦バッテリーに箕島自慢の機動力を生かした打線が充実。対する星稜も、エース堅田外司昭音重鎮らの打線が充実していた。この試合に勝利した箕島はそのまま同大会を制覇。その箕島を最も苦しめた星稜はその健闘ぶりが逆照射的に認識されることとなった。

試合

要約
視点

試合経過

先攻星稜、後攻箕島で16時06分試合開始。

さらに見る イニング, 両軍得点 ...

スコア

さらに見る R, H ...
  1. (星):堅田 - 川井
  2. (箕):石井 - 嶋田
  3. 本塁打
    (箕):嶋田、森川
  4. 審判
    [球審]永野
    [塁審]小林・木嶋・達摩
    [外審]片岡・橋本
  5. 試合時間:3時間50分

出場選手

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投手成績

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当時の報道

翌日の新聞は、この試合を大きく取り上げ、「試合展開は、いまだ見聞きしたことのない大試合ともいえた」(朝日新聞[2])「カクテル光線に照らされて筋書きのない、それでいてものすごい迫力のあるドラマ」(読売新聞[3])「すさまじい迫力に満ちた試合」(毎日新聞[4])と試合を讃えた。朝日新聞は、運動面とともに社会面でもこの試合を取り上げ「第四試合の星稜ー箕島戦は延長十八回、奇跡につぐ奇跡が続き、甲子園球場を埋めた三万四千余の観衆が目を疑う劇的な死闘となった」[5]、全国区レベルの注目度であることを伝えた。

星稜の地元の地方紙の北國新聞は17日の朝刊では一面トップ[6]のほか、運動面[7][8]では10面、11面にまたがって、そして社会面では、甲子園に乗り込んだ応援団の様子や、地元石川県での県民の応援ぶりを伝えた[9][10]

試合の評価

  • 冒頭で記したとおり、この試合は高校野球史上最高の試合とされる。その理由としては以下のような事が挙げられる。
    • 延長戦に入り箕島が失点した回の裏(12回、16回)、ともに二死無走者という土壇場から本塁打により同点とした。
    • 引き分け寸前の延長18回にサヨナラゲームで決着がついた(この試合以外の延長18回は全て引き分け再試合が適用されている)。仮に、延長18回引き分け・再試合となった場合、この翌日の第1試合・8時半開始に組み込むことが場内にアナウンスされていた。
    • 12回裏は、最後の打者が打席に向かう前に監督に対して「ホームラン、狙っていいですか?ホームラン、狙ってきます!」と発言した後に本塁打を放っている。
    • 16回裏二死後に打席に入った打者は、一旦は完全に打ち取られた打球を放ってしまい試合終了かと思われたときに、星稜の一塁手がつまずき転倒したため命拾いをし、その直後に飛び出した自身初の本塁打であった(それまでこの打者は練習試合も含め、本塁打を打った経験がなかった)。
    • 星稜の一塁手転倒の原因となった人工芝はこの年から敷設されたものであった。
    • 星稜も12回表の攻撃でスクイズを失敗した三塁手が、14回裏一死一・三塁のサヨナラのピンチに守備で借りを返す隠し球を成功させている。
  • 作詞家で作家の阿久悠はこの試合に感銘を受け、「最高試合」という詩をスポーツ紙に投稿した。同じく作家の山際淳司は、「八月のカクテル光線」という短篇(『スローカーブを、もう一球』に収録)を書き上げている。他にも、『一生分の夏 いつも胸に甲子園があった』(作家・山岡淳一郎の短編「黄金のスコアブック」を収録)、松下茂典(星稜高校出身)の『神様が創った試合―山下・星稜VS尾藤・箕島延長18回の真実』、朝日新聞社『奇跡の甲子園』(『審判は見た、「奇跡の試合」。受け継がれる選手への思いやり。』を収録)など、この試合に関する書籍がある。
  • 両校は1994年11月26日和歌山県営紀三井寺野球場で「再試合」と銘打って交流戦を始めた。
    • その後10年ごとに再試合が行われ、2004年11月13日には石川県立野球場で開催された。結果は18対11で星稜が勝ち、対戦成績を1勝1敗とした。
    • 2004年11月13日の試合では病気療養中の尾藤監督、当時プロ野球コーチであった嶋田(箕島)と音(星稜)が欠席した。当時甲子園で両校のプラカードを持っていた女性2人も参加した。当時星稜の一塁手加藤は延長16回裏の人工芝に躓いた(つまづいた)シーンを再現すべく手作りの人工芝型のマットを持参して一塁側のフェアグランドとファウルグランドの間で自身が躓いたと思われる位置に置き、関係者の笑いを誘った。
    • 2007年11月18日には、箕島高校創立100周年記念事業の一環として、現役部員同士による箕島-星稜戦が、マツゲン有田球場で行われ、19対6で星稜高校が勝利した。
    • 再々々試合を阪神甲子園球場で行おうという声も出ていた中、2010年9月23日に「甲子園歴史館開館記念大会」として、実に31年ぶりに甲子園での再戦が実現し、雨天の中熱戦が繰り広げられた。試合は星稜が17対13で勝った。車いすで参加した尾藤監督は「ベンチから見た甲子園は、故郷の光景でした」と涙を浮かべた。
    • しかし尾藤監督は翌2011年3月6日膀胱癌により68歳で病死。3日後の3月9日に営まれた葬儀では、星稜高校・山下智茂前監督が参列し男泣きしながら弔辞を読み、最後は山下前監督らの手によって尾藤の棺を運んでいた[11]
  • この試合に星稜の控え選手でベンチ入りし、途中出場を果たした高桑充裕は、後に根上町(現・能美市)の教育委員会職員・中学校教諭の地方公務員となり、教員兼野球部監督として、後に母校の後輩となる松井秀喜に対して、基礎から教え、厳しく鍛え上げ、松井に対し大リーガーに成長する基礎を植え付けた。なお、高桑は現在は人事異動で教職員ではなくなったものの、能美市職員として引き続き勤務している。その松井が国民栄誉賞を受賞した2013年第95回全国高等学校野球選手権大会に、箕島と星稜がともに出場を果たした。箕島は当時監督であった尾藤公の長男・強が監督を務め、対する星稜は、ファウルフライを追い人工芝に足を取られて転倒した加藤の長男である峻平が背番号10でベンチ入りした。多くのファンが「34年ぶりの再戦」を期待したが、両校ともに初戦敗退を喫した。なお加藤は代打で途中出場しセンター前ヒットを放った後の守備で、かつて父が守ったファーストの守備位置に付いた。
  • 箕島は宮崎国体でも優勝候補に挙がっていたが、接近してきた台風の影響で競技が中止となり、春夏甲子園制覇と国体制覇の3冠達成が潰えた。後にこの偉業は1998年松坂大輔らを擁する横浜高等学校が達成する。2010年に興南高校も3冠達成の期待が寄せられていたが、天候不良で大会が中断してしまい、3冠達成にならなかったが、日本高野連は10月3日付で、天候不良で中止となった国体に出場していた箕島も優勝扱いとする見解を発表したため、箕島が史上初の3冠達成となった。
  • 箕島は、この1979年の春夏連覇後に100人もの新入部員を迎えた。これに驚いた尾藤監督は、大阪府北陽高校野球部の当時監督だった松岡英孝に練習方法を尋ねた。その年の第62回全国高等学校野球選手権大会にも出場。ベスト8まで進出するも愛甲猛擁する横浜高校に敗退した[注 1]
  • 16回裏に本塁打を放った森川は、その試合後本塁打を打つことを狙い過ぎて打撃フォームを崩し、最終的に打順が8番まで下がった。箕島高校卒業後も復調することはなかった。
  • NHKが、1979年の甲子園の後の箕島、星稜ナインを題材にしたドキュメンタリー番組を制作した。
  1. にんげんドキュメント』 - 「球児たちの延長戦 25年目の星稜対箕島」(2004年12月10日放送)
  2. NHKアーカイブス』(2009年8月1日放送) - 番組では当時の試合映像と、上記2004年放送の番組を再放送し、新たな映像として試合から30年後の両校ナインの姿を紹介した。

プロまたは社会人野球に進んだ主な選手

箕島高校

星稜高校

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テレビ中継について

さらに見る テレビ局, 実況アナウンサー ...

この試合は第4試合ということもあってNHKが試合開始から18時(JST、以下同じ)まで総合テレビ、18時から試合終了まで教育テレビ、というリレー中継を実施したが、教育テレビ放映時間における視聴率は白熱した試合だったことも手伝って29.4%ビデオリサーチ関東)を記録、この数字はNHK教育テレビ歴代最高記録として、2021年現在も破られていない[12]。NHKによる箕島 対 星稜戦の中継放送を完全収録したVTRテープは、1987年時点では現存していたようで、衛星第1テレビで1987年の歳末スペシャルとして『思い出の名勝負』と題する、日本のスポーツの名勝負特集番組を組んだ際、1987年12月29日の第3夜(19:45 - 22:00)にこの箕島 対 星稜戦を完全再放送した[13]。なおNHKラジオ第1放送の実況は佐藤隆輔アナウンサーが担当。

一方、並列中継した朝日放送(ABC)は18時台にニュース[注 2]を、19時台に全国ネット番組[注 3]を放送しなければならないため、ローカルニュース枠を利用して延長をしたものの生中継を打ち切らざるを得なかったが、実況担当の植草は深夜の『高校野球ハイライト』(『熱闘甲子園』の前身)用に試合終了まで実況を続けた(ABCラジオは試合終了まで生中継。実況は因田宏紀アナウンサーが担当)。

箕島の地元・和歌山県テレビ和歌山(WTV)でもABCの中継をネットしていたが、17時45分からの『生活メモ』およびそれに続く『ニュース』枠(17:50-18:00 読売新聞東京本社日本テレビ放送網に委託製作した『読売新聞ニュース』・続いて18:00-18:10の『WTVニュース』)を放送するために生中継は打ち切られた。その後の番組(18:10-18:30は天気予報などのミニ番組各種、18:30より『超人バロム・1』の再放送、19時以降は東京12ch(現・テレビ東京)の各番組)の中で中継を再開したかは不明(ただし上記の『高校野球ハイライト』を翌日早朝に時差放映)。

星稜の地元・石川県では当時ANN加盟局が存在しなかったため[注 4]、ABCの中継がネットされたかどうかは不明である(当時の石川県での放送形態は決勝戦を北陸放送(MRO)[注 5]がネットしていたことのみ判明している)。

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その他

脚注

外部リンク

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