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埼玉郡
日本の埼玉県(武蔵国)にあった郡 ウィキペディアから
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埼玉郡(さいたまぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡。埼玉県の県名は当郡名に由来する。

郡域
現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
歴史
要約
視点
郡名の由来
地名は古く、飛鳥時代には「前玉」(さきたま)と書かれていたことが知られているが、語源は定かではない。国衙が置かれていた多摩郡の前を意味するとする説、本居宣長が提唱した「幸魂」(さきみたま)が転じたとする説などがあるがいずれも確証はない。
古代
埼玉郡は、7世紀の評制下で設置された前玉評(さきたまのこおり)を前身とする。藤原宮跡から、「前玉評」と書かれた瓦片が見つかっている[2]。また、武蔵国分寺献進瓦や『万葉集』にも「前玉」の文字が見える。
701年の大宝律令制定に伴い、評が郡となり前玉郡が成立した。726年(神亀3年)付の『山背国戸籍帳』(正倉院文書)には「武蔵国前玉郡」とある。一方、『続日本紀』733年(天平5年)条に「武蔵国埼玉郡」の記述があり、少なくとも奈良時代には「埼玉」という表記は使用され始めていたらしい。平安中期成立の『和名類聚抄』では「埼玉」が「佐以多万」と訓じられており、10世紀には「さいたま」という読みが確立していた。郡衙の位置については熊谷市の北島遺跡が有力視されている[3]。
郷
平安中期に成立した『和名類聚抄』に「埼玉郡」の郷として掲載されているのは以下の通り。
式内社
中世
中世には東西に分割され、騎西郡(寄西郡・埼西郡とも)と騎東郡(荘園名としては太田荘)に分割されていた。従来の研究では東西の境目は元荒川と考えられてきたが、江戸時代初期に行われた利根川や荒川の大改修で付近一帯の河川の流路が大きく変わっているとする筈だとする観点から見直しが行われた結果、現在では歴史河川である日川(にっかわ)が境界線であったと考えられている。日川は江戸時代初期に北側が新川用水の一部とされて備前前堀川に繋げられるなど大きな流路の変更が加えられたために東西境界としての役目を果たせなくなった(水量が減少した南側は18世紀には水田化される)。このためか、寛永年間には騎東郡は用いられなくなり、騎西郡も公文書からは姿を消すことになる[6]。
近世以降
- 所属町村の変遷は北埼玉郡#郡発足までの沿革、南埼玉郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、当郡域18町433村[8]の支配は以下の通り。他にも寺社領、寺社除地が各村に散在。
- 慶応4年
- 明治元年
- 明治2年
- 明治4年
- 明治5年4月9日(1872年5月15日) - 大区小区制により町村が廃止され、大区と小区に再編成される。主な大区には、二区(越ヶ谷付近)、五区(粕壁付近)、九区(久喜付近)、十区(菖蒲付近)、十一区(加須付近)、十二区(不動岡付近)、十三区(羽生付近)、十四区及び十五区(忍付近)、十六区(埼玉村・広田村付近)、二十区(岩槻付近)が存在した。
- 明治12年(1879年)3月17日 - 郡区町村編制法の埼玉県での施行により[9]、岩槻町ほか6町218村の区域に南埼玉郡、成田町(忍)ほか5町188村の区域に北埼玉郡がそれぞれ行政区域として発足。同日埼玉郡消滅。
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参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 11 埼玉県、角川書店、1980年7月1日。ISBN 4040011104。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 埼玉県 編『新編埼玉県史 通史編』 1 (原始・古代)、角川書店、1987年3月1日 。
- 埼玉県市町村合併史 上・下巻 埼玉県地方課監修
- 埼玉県市町村誌
脚注
関連項目
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