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米山篤志
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
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米山 篤志(よねやま あつし、1976年11月20日 - ) は、栃木県宇都宮市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。元日本代表。
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来歴
要約
視点
桐蔭学園高校時代、スランプに陥った時期に李国秀の勧めでミッドフィールダーからディフェンダーへと転向した[2]。
駒澤大学では2度の全日本大学選手権優勝やユニバーシアード日本代表選出などの実績を残し、在学中の1998年にヴェルディ川崎に入団。同年2ndステージにはレギュラーポジションを獲得した。2000年にはフェアプレー個人賞を獲得した[3]。
トルシエ監督時代には日本代表にも選出され、2000年2月26日のAFCアジアカップ2000 (予選) のブルネイ戦で国際Aマッチのキャップを記録した[4]。 以後も主力として東京Vのレギュラーを務めていたが、2005年に東京VのJ2降格が決定するとクラブの方針から戦力外通告を受けた。この時、米山と林健太郎が早々に戦力外通告を受けた事は、高校・大学とプロ入り前からチームメイトだった山田卓也やクラブ後輩の小林大悟が東京Vを去る決断をする要因となった。
2005年10月8日、1999年度ミス日本ミス水着に選ばれた小谷亜希子と入籍。
2006年は川崎フロンターレに移籍。第6節のジェフユナイテッド千葉戦に途中出場し、J1リーグ通算200試合出場を達成した。シーズン終了後には「川崎は来期に向けての契約非継続選手はゼロ」との報道もされていたが、2007年1月にJリーグ合同トライアウトに米山が参加していたことから、実際には戦力外通告を受けていた事が明らかになった。2007Jリーグ開幕直前に名古屋グランパスエイトの練習に参加し、正式に入団が決定した。2008年11月末にシーズン限りでの退団が明らかになったが、その直後のホーム最終戦・対札幌の試合終了直前に「無回転ボール」での強烈な直接フリーキックをゴールを決めた。
2009年、この年からJ2に昇格した故郷のクラブ・栃木SCに完全移籍。2010年は佐藤悠介とダブルボランチを組み、4連勝を含む11戦負け無しとチームの好調を支えたが、終盤は出場機会が減り、2010年シーズンを持って契約満了となり退団した。
2011年は、FCタンパベイ(アメリカ)や、深圳(中国)、愛媛FC、さらにはオーストラリア、ベトナムと、各国でプレーできるクラブを模索するも契約に至らず[5]、11月8日に現役引退を発表した[6]。
2012年より、ファンルーツアカデミーコーチングスタッフ、東京23FC監督に就任[7]。これと平行して中日スポーツ紙上でのサッカー評論も行う。
2014年10月、東京23FCの監督を解任された[8]
2017年シーズンから川崎Fのトップチームコーチに就任。同年4月にJFA 公認S級コーチライセンスを取得。
2020年シーズンからFC町田ゼルビアトップチームコーチに就任。
2022年11月22日、カマタマーレ讃岐トップチーム監督に就任すると発表された[1]。
2025年シーズンは前半戦終了時点で最下位に低迷し、7月6日付けで解任された[10]。
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所属クラブ
- 宇都宮市立陽光小学校[1]
- 宇都宮市立陽南中学校[1]
- 1992年 - 1994年 桐蔭学園高等学校
- 1995年 - 1997年 駒澤大学
- 1998年 - 2005年 ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969
- 2006年 川崎フロンターレ
- 2007年 - 2008年 名古屋グランパスエイト
- 2009年 - 2010年 栃木SC
個人成績
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(2000年)
出場
指導歴
監督成績
- 2025年は第19節まで。順位および成績は解任時点。
タイトル
クラブ
- 駒澤大学
- 全日本大学サッカー選手権大会 : 2回 (1995年、1997年)
個人
- 2000年 Jリーグフェアプレー個人賞
出演
ラジオ
- SC_FM『ヨネラジ』(RADIO BERRY 2010年8月3日-2011年1月25日終了、火曜日20:55-21:00)
脚注
- 2000年までは「ヴェルディ川崎」
出典
関連項目
外部リンク
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