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双津竜順一

日本の元大相撲力士 ウィキペディアから

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双津竜 順一(ふたつりゅう じゅんいち、本名:山本 順一1950年昭和25年〉2月28日 - 2014年平成26年〉8月12日)は、北海道室蘭市出身で時津風部屋に所属していた元大相撲力士。身長185cm、体重171kg。最高位は東小結1979年7月場所)。得意技は右四つ、寄り。現役時代のニックネームは「ゾウさん」[1]。後述の理由により、角界追放後は報道などでは本名の「山本順一」で一般的に紹介されることが多い。

概要 双津竜 順一, 基礎情報 ...
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来歴

要約
視点

1950年、製鉄所勤務の父の3人兄弟の長男として室蘭市で生まれた。中学在学中、時津風部屋に入門。1963年9月場所前に新弟子検査に合格したが、実際に前相撲を取ったのは翌1964年1月場所である。この頃の同学年には、後にプロレスに転身した天龍源一郎がいた。関取を目前とした1969年9月場所には、同じ時津風部屋所属で同郷の11代粂川(元前頭1・双ツ龍)に肖り「双ツ竜」と改名。同場所を幕下優勝で飾り、翌11月場所には19歳の若さで十両に昇進した。だが双津竜が関取に昇進する直前、時津風部屋の関取は時葉山しかおらず、双津竜の関取昇進によって部屋を関取消滅の危機から救ったことになる[2]。しかし立合いがやや遅かったこともあり、2年以上十両から脱却することができなかった。1972年3月場所にようやく新入幕を果たす。

全盛期には180キロもあり、当時の世代としては異例の巨漢であった。体力を生かした豪快な相撲で右四つになると特に力を発揮した。一方で故障が多く幕内と十両を往復することが多々あったが、1977年9月場所の5度目の入幕以降幕内に定着し、1979年7月場所には最高位となる小結まで番付を上げた。これが双津竜にとって最初で最後の三役経験であった。しかし1980年3月場所で右腕の上腕二頭筋を断裂して途中休場して以降は幕内から遠ざかると、1982年1月場所には幕下に陥落した。幕下でも相撲を取り続けたが、十両に返り咲くことはなく同年11月場所を最後に現役を引退、年寄・錦島を襲名した[1]。翌1983年には双津竜の引退相撲が行われたが同じ場所で廃業し、かつ同部屋である元前頭4・山口(幕内在位時は谷嵐)、元前頭12・牧本と合同で『双津竜引退錦島襲名 山口・牧本引退披露大相撲』として行われた。

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時津風親方時代(土俵上に立つ勝負審判五人の写真中央。)。

引退後は20年にわたり時津風部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たった後、2002年に定年を迎えた先代の時津風(元大関豊山)の後継者に指名され、8月に時津風部屋を継承した[1]。部屋の師匠としては関脇豊ノ島小結時天空らを育成した[3][4]

2007年4月に弟子で新小結・豊ノ島が横綱の朝青龍との稽古中に怪我を負った際、出稽古拒否も辞さない構えで朝青龍に対し「悪意に満ちた稽古だ」など激しく批判したが、朝青龍の師匠である高砂親方から詫びの電話があり、騒動は終結した。

ところが、2007年の名古屋場所直前に序ノ口力士の時太山を死に至らしめる時津風部屋力士暴行死事件が発生。時津風はその際に「死亡した力士にはマリファナの使用歴があった」等の発言をしたため、物議を醸した[5]。名古屋場所は審判委員を辞退している。2007年9月末、時津風がビール瓶で時太山の頭を殴打するなど暴行の事実を認めた事が報じられた。また時太山が倒れた直後も救急車を呼ばず弟子たちに口止めしたり、時太山の遺族に火葬の承諾を取ろうとした(遺族側は拒否し地元で行政解剖し暴行が発覚している。)。検視を行った愛知県警察が「虚血性心疾患」と誤った発表をしたことも発覚している。時津風本人は2007年10月3日にテレビ番組で一転して暴行の事実を否定した。自著『悪者扱い』では、暴行は三人の弟子が行っていたことで自分は知らず、三人が口裏を合わせて時津風に罪を負わせたとしているが、マスコミはこれについて反証などを行わず時津風の暴行として報道し続けている[6]

2007年10月5日に日本相撲協会から解雇された。解雇は除名の次に厳しい処分で、1997年1月の16代山響(元小結・前乃臻)以来2例目、部屋持ち親方としては史上初である[注 1]。以降、報道等では本名の山本順一で紹介されるようになった[3]

2008年2月7日、愛知県警に傷害致死容疑で逮捕され、2009年5月29日名古屋地裁懲役6年の実刑判決を言い渡され、即日控訴。判決後、保証金の1000万円を納め保釈された。日本相撲協会に対しては約2000万円の退職金を請求したが、支払いを拒否されたため協会を提訴した。2010年1月22日に退職金1588万円を支払うことで和解した[注 2]

2010年4月5日に開かれた名古屋高裁での控訴審判決は、相撲協会からの退職金を遺族に支払った事で情状酌量され一審判決を破棄し懲役5年とされたが、即日上告した。2011年7月20日、事件についての暴露本となる『悪者扱い』を出版した。出版を記念したニコニコ生放送でのインタビューで時津風本人は同年2月から角界を揺るがした八百長問題について「私も昔、やりました」と明かした。時期や回数については「十両に上がってから10番ぐらい」と話したものの対戦相手などは明言しなかった[7]

2011年8月29日最高裁判所は上告を棄却する決定をし、二審判決の懲役5年の実刑判決が確定した[8][リンク切れ]。その後は三重刑務所に服役[9]していたが、肺癌と診断されたため三重県内の病院で治療を受けた。後に病気のため刑の執行停止がなされ、東京都内の大学病院に入院したが病状が悪化し2014年8月12日未明に死去。64歳没[10]

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人物

「ゾウさん」の愛称で呼ばれるなど一見温厚でおっとりした人柄で知られ、普段は暴行死事件を引き起こすような人柄ではなかったという。角界において双津竜に好意的な人物として豊ノ島がおり、双津竜の訃報に際して弟子の豊ノ島は、「相撲人生を左右する時期に、いい意味で厳しく育ててもらった」「個人としてはかわいがってもらいました」と感謝の意を表して双津竜の死を偲んでいた。豊ノ島が高卒叩き上げとして三役まで上がれたのは沢山の先輩が熱心に指導してくれたからという実体験から弟子をよく褒め長所を伸ばす指導を行ったためであると知られ、前述のように豊ノ島が朝青龍との稽古で重傷を負わされた際には敢然と猛抗議した[11][12][13][14]

しかしながら一方で、酔って弟子に当たる様子が何度も目撃されるなど酒癖の悪さも有名であり、暴行死事件に関しても酒により現れた別人格が引き起こしたという評判が多く聞かれた。双津竜の関係者によると、「酒の強さなら間違いなく横綱」という酒豪であり、1973年日中国交正常化を記念して北京で開かれた中国公演では60度もある茅台酒を一気飲みして、自身も酒豪であった当時の首相周恩来[15]を驚かせたという[11][12][13]

現役時代から親しかった蔵玉錦[注 3]は双津竜死去直前の2014年6月に見舞いへ行った際、抗がん剤によるがん治療を始めたことも明かされていたと証言している[16]。同年8月12日に双津竜の死去が報じられた際には蔵玉錦も「(当日の)午前中に連絡が入り、きのうの夜中に亡くなったと聞いた。先月、病院で会った時はすこぶる元気だった。うまそうにかき氷を食べていたのに…」と、その様子を説明している[17]

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主な成績

  • 生涯成績:676勝669敗30休 勝率.503
  • 幕内成績:186勝226敗23休 勝率.451
  • 現役在位:118場所
  • 幕内在位:29場所[1]
  • 三役在位:1場所 (小結1場所)[1]
  • 各段優勝
    • 十両優勝:2回(1975年5月場所、1975年11月場所)[1]
    • 幕下優勝:1回(1969年9月場所)

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...

幕内対戦成績

※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴

  • 山本 順一(やまもと じゅんいち)1963年9月場所
  • 山本川 順一(やまもとかわ-)1963年11月場所~1969年7月場所
  • 双ツ竜 順一(ふたつりゅう-)1969年9月場所~1971年9月場所
  • 双津竜 順一(ふたつりゅう-)1971年11月場所~1982年11月場所

年寄変遷

  • 錦島 順一(にしきじま)1982年11月~2002年8月
  • 時津風 順一(ときつかぜ)2002年8月~2007年10月

著書

関連項目

脚注

外部リンク

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