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貝塚政秀
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貝塚 政秀(かいづか まさひで、1974年12月25日 - )は、長崎県諫早市[1]出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)、野球指導者。
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来歴
長崎日本大学高等学校時代は1年夏と2年夏のベスト4が最高で甲子園出場はならなかった[1]が、運動能力は当時から高かった。1学年下の後輩に中村隼人がいる。
1993年春に三菱重工長崎に入社し、俊足・強打の攻撃型捕手として頭角を現す。打線では7、8番を打つことが多かったが、中軸を打つ力は充分にあり、「下位打線の要」「恐怖の7番」「曲者」ともいわれた。なお、同期には内薗直樹、大卒の同年に開田博勝がいる。
1999年、貝塚ら若手とベテランの力が噛み合った三菱重工長崎は第70回都市対抗野球大会に出場、決勝で東芝に敗れたが準優勝を果たす。攻守にわたって活躍した貝塚は、東芝・中野順二と共に大会優秀選手に選ばれた[1]。
社会人野球日本選手権大会は九州予選で敗退したが、貝塚は11月のドラフト会議で西武ライオンズにドラフト5位指名を受けた[1]。この時、内薗も読売ジャイアンツにドラフト4位指名を受けている。
西武時代
2000年(1年目)、外野手や指名打者として70試合に出場するも、打率.196、15打点と打撃がふるわなかった。
2001年はほとんど出場できなかった。プロ入り後は捕手としてレギュラーをつかむに至らず、おもに左の代打としての起用が続いた。程なく打撃を生かすため外野手にコンバートされた[1]。
2002年は右の犬伏稔昌、左の宮地克彦と「日替わり3番打者」として併用され、規定打席未満ながら3割を記録、初本塁打も放った。
2003年はプロ入り初のノーヒットに終わる。
2004年は自己最多の112試合に出場。初めて規定打席に到達し、打率3割をマークした。最終的に規定打席に到達したのはこの年のみとなる。
2005年は3番指名打者で初の開幕スタメンの座をつかんだが序盤で失速し、ホセ・フェルナンデスが指名打者に回って出番がなくなる。後半はアレックス・カブレラの離脱で、プレーオフで3番を任されたが打撃は振るわなかった。
2006年は打撃不振で二軍暮らしが長く続いた。
2007年は二軍で.292と高い打率を残し、左の代打として一軍に昇格したが、打率1割台と結果を残せなかった。
2008年は一度も1軍選手登録されることはなく、10月1日に戦力外通告を受けた。その後12球団合同トライアウトに参加。12月2日に自由契約公示された。
引退後
2009年から長崎市の小学生硬式野球クラブでコーチを務め、2011年から同市の大黒バッティングセンターで野球塾を開校し代表を務めている。
また、2014年からは古巣の三菱重工長崎でコーチを務めていた。
また、2024年からはマツゲン箕島硬式野球部で打撃兼バッテリーコーチを務めている[2]。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
- 初出場:2000年4月1日、対日本ハムファイターズ1回戦(西武ドーム)、10回裏に清水雅治の代打として出場
- 初打席・初打点:同上、10回裏にカルロス・ミラバルから同点押し出し四球
- 初安打:2000年4月12日、対福岡ダイエーホークス2回戦(西武ドーム)、8回裏に垣内哲也の代打で出場、長冨浩志から左前適時打
- 初盗塁:2000年6月3日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:岩本ツトム、捕手:野口寿浩)
- 初先発出場:2000年6月4日、対日本ハムファイターズ11回戦(東京ドーム)、6番・指名打者として先発出場
- 初本塁打:2002年8月23日、対オリックス・ブルーウェーブ19回戦(グリーンスタジアム神戸)、10回表に萩原淳から右越決勝ソロ
背番号
- 39 (2000年 - 2008年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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