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青松敬鎔

元プロ野球選手 ウィキペディアから

青松敬鎔
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青松 敬鎔(あおまつ けいよう、1986年12月7日 - )は、京都府京都市伏見区出身の元プロ野球選手内野手捕手)。右投右打。妻はタレント鷲巣あやの[1]2015年9月11日から2016年の現役引退までは、青松 慶侑(読み方は本名と同じ)という登録名を用いていた[2]

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
視点

プロ入り前

上宮太子高等学校への在学中には、春夏ともに、阪神甲子園球場での全国大会に出場できなかった。2004年のプロ野球ドラフト会議で、捕手として千葉ロッテマリーンズから7位で指名。契約金3000万円、年俸450万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は63。上宮太子高校から直接NPBの球団へ入った選手は、青松が初めてであった。

プロ入り後

2005年福岡ダイエーホークス時代に城島健司を指導した古賀英彦二軍ヘッドコーチから「(捕手として)城島を凌ぐセンスの持ち主」と評価されたが、一軍公式戦への出場機会はなかった。

2006年2月26日に開かれた第1回WBC日本代表との練習試合で一塁を守ると、イースタン・リーグの公式戦では、一塁手として31試合、捕手として16試合に出場した。打率.257、4本塁打という成績を残したことから、9月19日に入団後初の出場選手登録。9月26日の対西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)7回表に代打で一軍デビューを果たしたが、一軍公式戦で初安打を放つまでには至らなかった。シーズン終了後には、9年振りに再開されたハワイ・ウィンターリーグに派遣。息子の応援に来ていたロジャー・クレメンスの球をブルペンで受ける幸運もあった。

2007年、イースタン・リーグ公式戦に、一塁手として26試合、捕手として23試合に出場。しかし、打率が.159にとどまるなど打撃が振るわず、一軍公式戦への出場機会はなかった。

2008年、イースタン・リーグ公式戦では、打率.252、8本塁打と打撃が復調。守備面でも、33試合で捕手、13試合で一塁手、1試合で三塁手に起用されると、いずれのポジションでも失策を記録しなかった。しかし、ロッテ球団と支配下選手契約を結んでいた捕手でただ1人、一軍の公式戦へ出場できなかった。

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打席に立つ青松(2009年)

2009年、イースタン・リーグ公式戦38試合の出場で、打率.244、4本塁打をマーク。前年から若干調子を落とした影響で、一軍昇格の機会はなかった。

2010年、イースタン・リーグ公式戦78試合で、打率.259、8本塁打を記録するなど打撃が復調。シーズン当初は、主に一塁を守っていた。一軍正捕手・里崎智也の背筋痛で他の捕手が二軍から昇格したことや、二軍の正捕手だった金澤岳が故障したことを背景に、シーズン終盤からは二軍の正捕手に定着。チームの同リーグ優勝やファーム日本選手権制覇に貢献したが、5年続けて一軍から遠ざかった。

2011年、イースタン・リーグ公式戦63試合に出場したが、打率は.220で、本塁打を1本も放てなかった。

2012年、イースタン・リーグ公式戦57試合に出場。打率.262、3本塁打を記録した。

2013年、春季キャンプの直前に、登録ポジションを捕手から内野手へ変更[3]。イースタン・リーグ公式戦では、76試合の出場で、打率.292、10本塁打を記録[4]。さらに、サブロー7月31日に故障で離脱したことから、右の代打の切り札として、7年振りに一軍昇格を果たした。翌8月1日の対北海道日本ハムファイターズ戦(QVCマリンフィールド)6回裏に代打で起用されると、適時二塁打を放ったことで一軍初安打・初打点を記録[5][6]8月3日の対オリックス・バファローズ戦(ほっともっとフィールド神戸)では、「6番・指名打者」として、一軍公式戦で初めてスタメンに起用。3安打を放って、自身初の猛打賞を記録した[4]。シーズン通算では、一軍公式戦9試合に出場。打率.313、長打率.438、3打点という成績を残した。

2014年3月26日に開かれた北海道日本ハムファイターズとのイースタン・リーグ公式戦で、審判員への侮辱行為によって退場を命じられたため、リーグから厳重注意と制裁金15万円の処分を受けた[7]。同リーグの公式戦全体では、チーム最多の105試合に出場。打率.313、13本塁打という好成績を残したが、一軍公式戦では3試合の出場にとどまった。

2015年、イースタン・リーグ公式戦85試合に出場すると、15本塁打で本塁打王、打率.298で首位打者のタイトルを獲得した。一軍公式戦では、6月6日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)4回表に、石川雅規からの左越ソロ本塁打で一軍初本塁打を記録。

シーズン通算では、プロ入り後最多の13試合へ出場したものの、打率が.150にとどまった。なお、9月11日には、登録名を青松 敬鎔から青松 慶侑へ変更することが発表された[2]

2016年、イースタン・リーグ公式戦では、チーム最多の115試合に出場。打率.278、13本塁打を記録したが、一軍公式戦への出場機会がないまま、10月1日に球団から戦力外通告を受けた[8]12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示[9]

NPB他球団での現役続行を希望していたため、11月12日12球団合同トライアウト(甲子園)へ参加。捕手や一塁の守備に就く一方で、シートバッティング形式の対戦では、5人の投手を相手に5打数2安打1三振という結果を残した[10]。しかし、他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らず、この年限りで現役を引退した[11]

引退後は野球界を離れ、2017年1月よりソニー生命保険で営業として働く。2020年4月、営業所長に昇進。

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選手としての特徴

ロッテでの現役時代には、チームに数少ない長距離打者として、イースタン・リーグで数々の打撃タイトルを獲得。2012年までは捕手として登録されていたが、実際の公式戦では、打力を買われて、内野手や指名打者として出場する機会が多かった。

一軍公式戦での出場試合数が最も多かった2015年には、4番打者でキューバ代表でもあるアルフレド・デスパイネパンアメリカン競技大会への出場でチームを離れた期間中に、デスパイネの穴を埋める活躍が期待されていた。青松も「(自身の苗字とデスパイネの名前にちなんで)『アオパイネ』になります」と宣言していたが、一軍公式戦での通算本塁打は、この年に放った1本だけだった[11]

詳細情報

年度別打撃成績

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年度別守備成績

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記録

背番号

  • 63 (2005年 - 2016年)

登録名

  • 青松 敬鎔 (あおまつ けいよう、2005年 - 2015年9月10日)
  • 青松 慶侑 (あおまつ けいよう、2015年9月11日 - 2016年)

登場曲

脚注

関連項目

外部リンク

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