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飛行教導群

日本の航空自衛隊の仮想敵機部隊 ウィキペディアから

飛行教導群
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飛行教導群(ひこうきょうどうぐん、英称:Tactical Fighter Training Group)とは航空自衛隊における仮想敵機部隊(いわゆるアグレッサー部隊)のことである。 要撃機パイロットの技量向上などを目的とし、航空自衛隊の戦闘機パイロットの中でも特に傑出した戦闘技量を持つパイロットが配属されている。主に各戦闘機部隊について巡回指導を行っている。

概要 飛行教導群 Tactical Fighter Training Group, 創設 ...
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概要

要撃機パイロット・要撃管制官の技量向上などを目的として、1981年(昭和56年)8月1日に築城基地第8航空団隷下に飛行教導隊準備隊と準備室が設置された。当初の使用機種は冷戦時の東側諸国の代表的戦闘機であるMiG-21に比較的飛行特性が似ていて、シルエットも小さく、複座で目視による索敵や新人パイロットの訓練飛行に適したT-2が選ばれた。築城基地が選ばれた理由として、当時同基地に所属する第6飛行隊には、同じ機体T-2がベースになっているF-1が配備されており、運用面の負担軽減が考慮されたと言われている[1]。12月17日、築城基地にて飛行教導群としてT-2 5機とT-33 2機で編成された[1]

その後、訓練空域に近く天候も安定している点から、1983年(昭和58年)3月16日に宮崎県新田原基地に移動する。編成から5年が経過しシラバスが確立したことから安定した運用がされていたが、1980年代後半には飛行教導隊所属のT-2高等練習機が機動中に空中分解するなどの重大事故が頻発した[1]。そのため、格闘戦能力に圧倒的に優れるF-15Jを相手にしての訓練は勝ち目が無いと飛行教導群へのF-15Jの導入は見送られていたが、空幕は1989年以降使用機種をF-15J/DJに更新することを決定し、1988年(昭和63年)9月から準備が始まった。事故の影響もあり、F-15Jの配備準備は「異常な速さ」で進み、1990年(平成2年)4月3日に最初のF-15DJ 2機を受領した。同年12月17日までにF-15DJに機種更新し、アグレッサー機にF-15を採用した世界初の部隊となった[1]。安全上の監視態勢の観点や後席に訓練生を搭乗させることから複座型のF-15DJが配備されていたが、2000年(平成12年)以降は単座型のF-15Jも少数機配備されている[2]

2014年(平成26年)、空自教導部隊等を一括指揮する「航空戦術教導団」の新編に伴い、同隷下は隊編成から群編成となり、「飛行教導群」に改称。飛行隊と整備隊の2個隊を改新編し隷下部隊とした。

2016年(平成28年)6月10日、長年ホームにしていた新田原を離れ、能登半島沖のG訓練空域に面した小松基地に移駐した[1]

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塗装

編成当初は通常のT-2と同じ塗装だったが、1984年に企画班と安全班を設置し、塗装の研究が行われた。視認性を低く抑え、またソ連の戦闘機の塗装や機番の表記特徴(黒や黄色によるトリミングや2桁の機体番号、キャノピーに似せた塗装)を模した塗装になっていた。F-15に機種更新してからは、一転して空中での識別を容易にし「見えなかった」という言い訳が通用しないようにするため、また仮想敵の役割(戦闘機か戦闘爆撃機か)によって、様々な塗装を施している[3]。塗装案は部隊内で募集され、機体定期修理がある54ヵ月ごとに塗りなおされる。パターンや色調で「くろ」「みどり」などの愛称が付けられており、愛称も部隊で定めていたが、その後はファンが独自に呼んでいる[1]

編成

編成以降、パイロットや要撃管制官の入隊や各飛行隊の築城基地への展開時の訓練、年1回各基地に展開しての巡回教導訓練、戦技競技会への参加を通して、各部隊への訓練を行っている[1]

飛行教導群に配属されるのは、操縦技量が高いことは最大の前提条件であるが、原則として希望して配属される部隊ではなく、教導群の隊員が認めたパイロットのみ、一本釣りのような形で打診があると言われている[1]。配属後は、飛行教導群としての訓練を重ねることになるが、操縦技量のさらなる向上だけでなく、格闘戦の組み立て方や、指導する相手側(一般部隊)へのコーチング能力の向上が重視され、非常に理路整然と両者の操縦を判断できる能力を要求されるため、配属間もないパイロットにとっては、非常に大きな壁を感じることもあると言われている。

また、要撃管制班は、武器(バトラー)使用などについて、アグレッサーに指示を行う地上要員であり、パイロットと並んで重要な役割を担う。要撃管制班は各航空方面隊駐屯基地などに編成されている。警戒群の要撃管制官の教導にも携わる。

シンボルマーク

部隊マークのコブラは、「高い知能を持ち、一撃必殺の毒で敵を仕留め、背後の敵機の警戒も万全である」という意味がこめられている。1980年代後半には、コブラに赤い箇所を足して「赤い星」に似せるように工夫されていた。また、パイロットが身に着けているフライトスーツ右胸のドクロのパッチは、「空中戦降伏は無く、撃墜されたら骨となる運命」との戒めである[1]

沿革

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部隊編成

特別事項ないものは小松基地駐在

  • 群本部
  • 教導隊
  • 整備隊
    • 総括班
    • 整備小隊

航空機整備等については第6航空団整備補給群が担当。(新田原駐屯時代は第5航空団整備補給群が担当)

歴代運用機

主要幹部

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事故

1986年9月2日、T-2がエンジンの推力減少で墜落し、後席のパイロットは脱出したが、前席の正木正彦教導隊長(二等空佐)が殉職した[1]

1987年5月8日、T-2が空中火災で墜落。搭乗していた二等空佐と三等空佐が殉職した[1]

1989年3月22日、T-2が機体破損で墜落し、搭乗していた三等空佐と一等空尉が殉職した。3年で3機が墜落し5名が殉職するという異常事態に、常に高機動飛行を行うことによる機体疲労と機体の強度不足が疑われたが、事故の調査結果は、原因不明とされた。当時の航空幕僚副長だった鈴木昭雄によると、これらの事故の後、三菱重工業の対応とT-2の強度に不信感を持った教導隊のパイロットの間で、T-2への搭乗を拒否する動きがあり、鈴木とパイロットの話し合いで収められたという[1]

1993年10月6日、飛行教導群のパイロットが第202飛行隊から借りて搭乗していたF-15DJが、総合火力演習に参加中に燃料系統の故障で墜落した。パイロットは2人とも脱出して無事だった[1]

2022年1月31日17時半頃、F-15DJ 32-8083号機は計4機で戦闘訓練に向かう予定で小松基地を離陸後、基地西北西約5km付近の洋上で小松管制隊のレーダーから航跡消失[7][8]。管制官はオレンジ色の発光を確認、無線で呼び掛けたが応答はなく[9]、17時50分以降、航空自衛隊による捜索救難活動開始、19時10分ごろ、小松救難隊UH-60J救難ヘリコプターが浮遊物を発見、19時25分ごろ、浮遊物(航空機の外板等の一部)を回収、20時20分ごろ、浮遊物(救命装備品の一部)を回収、20時40分ごろ、回収した浮遊物を、特徴的なトラ柄のデザインから当該機のものと断定し、墜落と推定された。現場海域を航行する船への被害は確認されておらず[10][8]、群司令田中公司1佐(前席)と植田竜生1尉(後席)が行方不明となっていたが、2月11日、現場海域で遺体の一部が発見され搭乗員の1人であると特定された[11][12]。乗員が脱出した際に発信される救難信号は確認されていない[13][14]。2月13日、もう1人の遺体が発見され、両名共殉職という結果になった[15]。3月12日、田中公司1等空佐と植田竜生1等空尉の葬送式が小松基地で行われた[5]岸信夫防衛大臣や基地関係者らが出席。井筒俊司航空幕僚長は「まさに慟哭(どうこく)の思いだ。二度とこの様な事故が起きないよう、一層の努力を誓う」と弔辞を述べ、熟練パイロットの死を惜しんだ[5]。空自は事故当日の1月31日付で田中1佐を空将補に、植田1尉を3等空佐へ特別昇任とした[5]

脚注

関連項目

外部リンク

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