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龍憲一

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龍 憲一(りゅう けんいち、1937年4月28日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
視点

プロ入りまで

福岡商科大附属大濠高卒業後は杵島炭鉱を経て、日炭高松に入社。深見安博監督の下、1959年の都市対抗に初出場を果たす。2回戦で東洋レーヨンを相手に先発し、5回まで好投するが、後続が打たれ惜敗した[1]。この時のチームメイトに柿本実黒江幸弘がいる。

現役時代

1960年東映フライヤーズへ入団[2]。7人兄妹の末っ子で野球が好きで上手かった男4人兄弟を代表してプロ入りし[3]、1年目の同年から一軍で起用され、4月10日近鉄戦(駒沢)に中継ぎで初登板。同29日阪急戦(駒沢)では岡田忠弘の2番手でマウンドに上がり、打席でも初安打を放つ。5月18日大毎戦(川崎)で初めて先発に起用され、中西勝己と投げ合って5回を1点に抑え初勝利を挙げるが、2年目の1961年は故障もあって低迷。右手人さし指自動車ドアに詰めて1勝も出来なかった[3]

日炭高松時代から親がわりであった深見の世話で[3]、3年目の1962年広島カープへ移籍。先発、中継ぎと重宝されるが、肩の出来上がりが早く、連投がきくからという理由で抑えを任されることになった[2]。当時はセーブというルールが球界に無かった時代であり、抑えは単なるリリーフと変わりが無いものであったが、自分の役目をしっかりと果たす。この年は60試合に登板、1963年は先発の一角としても起用され、リーグ最多の61試合に登板するなど、毎試合ベンチでスタンバイしていた[2]1965年には64試合に登板し226回を投げ、初めて規定投球回(8位、防御率2.31)にも達する。18勝13敗を記録し、その内17勝が救援勝利という内容であった[2]。球団最多登板64、救援登板57は1976年渡辺弘基(73、71)に破られたが、救援最多勝利17は今も球団記録として残っている[3]。翌1966年にも16勝14敗と活躍。「8時半の男」と言われた宮田征典と共にリリーフの重要性を球界に確立した功績は大きかったが[3]、しかしこれまでの疲労が溜まり1967年を故障し、1970年限りで現役を引退[2]。引退後「僕が太く短くを選んだ。だから後悔はない」と本人は語っている[2]

現役引退後

引退後は広島でスコアラー(1971年)→二軍投手コーチ(1972年)を1年ずつ務め、太平洋二軍投手コーチ(1973年 - 1974年)も務めた。

退団後は古巣・広島に復帰し、二軍投手コーチ(1975年 - 1977年シーズン途中, 1984年 - 1987年)・一軍投手コーチ(1977年途中 - 1983年)・スカウト(1988年 - 1996年2月[3])を歴任。古葉竹識監督に仕え、5度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献し、広島の黄金期を支える。

広島退団後は30年来の知人の協力で広島駅近くで300台収容の駐車場を経営していたこともあったが[3]広島経済大学で特別コーチ(2000年 - 2005年)→投手コーチ(2006年 - 2009年)→監督(2010年 - 2012年)を歴任。監督在任中は2度のリーグ優勝に導き、柳田悠岐を送り出した[4]。監督の後任として同じく広島OBの山本翔が就任し、2代続けて広島OBが監督を務めることとなった。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 17 (1960年 - 1961年)
  • 13 (1962年)
  • 21 (1963年 - 1970年)
  • 65 (1972年)
  • 75 (1973年 - 1974年)
  • 74 (1975年 - 1987年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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