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1990年の全日本F3000選手権

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1990年の全日本F3000選手権は、1990年(平成2年)3月3日 - 4日鈴鹿サーキットで開幕し、同年11月17日 - 18日に鈴鹿サーキットで閉幕した全10戦によるシリーズである。

1990年の全日本F3000選手権
Previous: 1989 Next: 1991

概要

1980年代後半から続いていたバブル景気や、フォーミュラ1ブームとともに巻き起こったモータースポーツブームを背景に、史上最多の参加台数を記録した。開幕2連勝を達成し、シリーズ6勝を記録した星野一義がチャンピオンになった。

エントリーリスト

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※タイヤ:B ブリヂストンD ダンロップY 横浜ゴム

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スケジュール及び勝者

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シリーズポイントランキング

要約
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ドライバー部門

ポイントシステム
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※ベスト7戦が有効得点

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トピックス

  • バブル景気によって日本経済が好調だったこと、前年限りで終了したGCシリーズからの転入などによって、開幕戦のエントリー台数が前年の開幕戦の22台から31台へと大幅に増加した。このため予選で混雑が起きることが予想されたため、予選をA組、B組の二組に分けて行うことになった(この方式は1992年の開幕戦まで行われた)。
  • 富士スピードウェイを中心に行われていたGCシリーズが前年限りで終了したことに伴う代替イベント確保のため、富士スピードウェイでのレースが年4戦に増加した。
  • バブル景気、モータースポーツブームの追い風を受けてスポンサーが急増。石油会社やタイヤメーカーなどの自動車関連企業から家電、IT、アパレル、飲料品、消費者金融不動産など様々なスポンサーが登場し、ダブルでチームのタイトルスポンサーを抱くチームも登場した。
  • この年は国内トップフォーミュラとしては初めて、全戦にタイトルスポンサーが付いた。カード会社のミリオンカードが鈴鹿の全4戦、日本信販が富士、西日本、SUGOでの計5戦のタイトルスポンサーを務めた。富士での第2戦は前年に引き続きキャビンが務めた。
  • 前年までF1ドライバーだったジョニー・ハーバート、フォルカー・ヴァイドラー、クリスチャン・ダナー、エンリコ・ベルタッジアが全日本F3000に参戦した。
  • レイナードは1990年用の新車90DでF3000マシンとしては初めて横置きトランスミッションを採用した。しかし、その横置きトランスミッションにトラブルが多発し、レイナードユーザーの成績は低迷した。
  • 前年度チャンピオンの小河等がタイヤ銘柄を変更した。この移籍劇についての生臭い経緯が関係者によって明らかにされている[1]
  • 俳優の岩城滉一が、芸能活動を一年間停止して全日本F3000にフルエントリーした。全戦予選落ちに終わったが、第2戦富士でロス・チーバーがマシントラブルでレース開始直前に出走を取りやめたことから、繰り上げでピットからのスタートながら1レースのみ走ることができた。
  • 第7戦富士で、サンテックがタイトル争いをするマウロ・マルティニのポールポジション獲得のために予選でチームプレイを披露した。チームメイトのジェフ・クロスノフ、マルティニの順で連なってウォームアップ・ランに入り、ストレートでマルティニがクロスノフのスリップストリームに入ってトップスピードを稼ぎながらタイムアタックに入るというもので、マルティニは見事ポールポジションを獲得した。[2]
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脚注

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