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『貞観政要』(じょうがんせいよう / ぢょうがんせいよう)は、中国唐代に呉兢[注 1]が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。
中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されて広まった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。
本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪[注 2]ら重臣45名[1])との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。
太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。中国には秦以来、皇帝に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務があり、唐代の諫官は毎月200枚の用紙を支給され、それを用いて諫言した。歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のように諌官の忠告を真面目に聞き入れていた皇帝は極めて稀で、皇帝の怒りに触れて左遷されたり、殺される諌官も多かったという。
太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿はいかめしく、極めて厳粛であることを知っていた太宗は、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた(求諫篇)。また官吏たちを交替で宮中に宿直させ、いつも近くに座を与え、政治教化の利害得失について知ろうと努めた。そして臣下たちもこれに応えて太宗をよく諫め、太宗の欲情に関することを直言したり(納諫篇)、太宗の娘の嫁入り支度が贅沢であるということまでも諫めている(魏徴の諫言)。太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた。
また太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。公卿たちが太宗のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると言って退けた。太宗を補佐した魏徴ら重臣たちは今の各省の大臣に相当するが、その家に奥座敷すら無いという質素な生活をしていた。私利私欲を図ろうと思えば、容易にできたであろう立場にいながらである。
このような国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行は、儒教の精神からくるといわれる。中国では儒教道徳に基準を置き、皇帝は天の意志を体して仁慈の心で万民を愛育しなければならないという理念があった。また臣下にも我が天子を理想的な天子にするのが責務であるという考えがあり、天子の政治に欠失がないように我が身を顧みず、場合によっては死を覚悟して諫めることがあった。
ゆえに本書は、かつては教養人の必読書であり、中国では後の歴代王朝の君主(唐の憲宗・文宗・宣宗、宋の仁宗、遼の興宗、金の世宗、元のクビライ、明の万暦帝、清の乾隆帝など)が愛読している。また日本にも平安時代に古写本が伝わり、北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきた[2][3]。
本書の編纂は呉兢[注 1]によるもので、時期は太宗の死後40から50年ぐらい、つまり武則天が退位して中宗が復位し、唐朝が再興した頃である。呉兢は以前から歴史の編纂に携わっており、太宗の治績に詳しいことから中宗の復位を喜んだ。そして貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから、『貞観政要』を編纂して中宗に上進した。その後、玄宗の世の宰相・韓休(かんきゅう、672年 - 739年[4])がかつて中宗に上進したその書を高く評価し、後世の手本となるように呉兢に命じて改編して上進させた。以後、『貞観政要』が世に広まったのである。
中宗に上進した初進本は中宗個人を対象としたもので、天子が心得るべき篇(輔弼(ほひつ)篇や直言諫諍(かんそう)篇、第4巻参照)があり、玄宗への再進本は後世の手本とするものなので、太子や諸王を戒める篇に改められている[5]。
以下、内容の一部を記す。
『貞観政要』は遅くとも平安時代には日本に伝来しており、『日本国見在書目録』の中にも表れる。一条天皇の時代に惟宗允亮は『政事要略』の中で取り上げ、ほぼ同じ頃に大江匡衡は藤原行成から借り受けて書写し、寛弘3年(1006年)に一条天皇に対して進講している。また、安元3年(1177年)には藤原永範が高倉天皇に進講を行っている。鎌倉時代には北条政子が菅原為長に命じて和訳させ、日蓮もこれを書写した。江戸時代初期には徳川家康が藤原惺窩を召して講義させ、更に足利学校の閑室元佶に命じて活字版を発刊させてその普及に努めた。家康が金地院崇伝に命じて起草させた「禁中並公家諸法度」の第一条には天皇の主務として学問を挙げ、その根拠を『貞観政要』において解説している(「不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也(学ばなければ昔からの古来の道義・学問・文化にくらくなり、それで政治を手落ちなく行い太平をもたらした事は、いまだかつてない。このことは『貞観政要』に明確に書かれている))。明治天皇も侍講の元田永孚の進講を受け、深い関心を寄せた。
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