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君主がその地位を手放すこと ウィキペディアから
退位(たいい、英語: abdication)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。しばしば譲位と混同されるが、その意味合いは異なる。
通常、革命や憲法や法律などによって君主制が廃止されない限りは、自動的に継承者に譲り渡すことになる。君主の地位の継承は2種類あり、君主の死によって継承される場合は「退位」と言わず、君主が生きているうちに地位権力を手放すことを「退位」という。また、君主自身の意思ではなく、革命や憲法などで他人が君主から地位権力を剥奪することは廃位(英:dethronement)という(ただし、この場合でも剥奪した側は退位を装うことがある)。
2016年(平成28年)7月13日の第125代天皇明仁の意向を示す主要各紙や放送各局の報道では、「生前退位」の表現が多く用いられた[1][2]。しかし「生前」という言葉はその人物の「死後」を前提として使用するため、存命の人物に対して「生前」という言葉は非礼に当たり、本来不適当なものであるとされる。通常、存命の人物に対して用いる語は「譲位」とするのが適切である[3]。
中世ヨーロッパ世界において、君主が生前に退位する事例はいくつも見られた。ただしそれは主に、政争に敗れての強制的なものだった。イングランド王国を例にとると、エドワード2世(1327年)、リチャード2世(1399年)が挙げられる。革命で君主の座を追われる事例も近世以降には見られるようになった。同じくイングランドでは、名誉革命で亡命したジェームズ2世(1688年)が代表例である。また、君主自身のスキャンダルを理由とする退位も、近代以降には生じるようになった(バイエルン王国のルートヴィヒ1世、イギリスのエドワード8世など)[4]。
君主自身の高齢化や健康状態を理由とする「譲位」は、古くは神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世などの例も見られるが、常態的になったのはヨーロッパでも20世紀以降である。その嚆矢となったのは、1948年9月に退位したオランダのウィルヘルミナ女王で、68歳の時に王位を長女のユリアナに譲った[4]。女性君主から実子への譲位と見るならば、アラゴン女王ペトロニラやカスティーリャ女王ベレンゲラなど、中世からしばしば見られるが、これらの場合は男王への譲位である。
退位について、憲法に規定のある国が多い。日本・イギリス・スペインは特別法によって退位している。また、憲法・法律の規定を根拠としないで退位している国の例もある(カタール、ブータン、ベルギー)[5]。
名 | 位 | 日付 | 後継者 |
---|---|---|---|
トリブバン | ネパール国王 | 1950年11月7日 | ギャネンドラ |
ギャネンドラ | 1951年1月7日 | トリブバン | |
レオポルド3世 | ベルギー国王 | 1951年7月16日 | ボードゥアン |
ファールーク1世 | エジプト国王 | 1952年7月26日 | フアード2世 |
タラール1世 | ヨルダン国王 | 1952年8月11日 | フセイン1世 |
フアード2世 | エジプト国王 | 1953年6月18日 | 君主制廃止 |
シハヌーク | カンボジア国王 | 1955年3月2日 | スラマリット |
アリ― | カタール首長 | 1960年10月24日 | アフマド |
サウード | サウジアラビア国王 | 1964年11月2日 | ファイサル |
シャルロット | ルクセンブルク女大公 | 1964年11月12日 | ジャン |
サイフディン3世 | ブルネイ・スルタン | 1967年10月4日 | ハサナル・ボルキア |
サイード | オマーン・スルタン | 1970年7月23日 | カーブース |
アフマド | カタール首長 | 1972年2月22日 | ハリーファ |
コンスタンティノス2世 | ギリシャ国王 | 1973年6月1日 | 君主制廃止 |
サワーンワッタナー | ラオス国王 | 1975年12月2日 | |
ユリアナ | オランダ女王 | 1980年4月30日 | ベアトリクス |
モショエショエ2世 | レソト国王 | 1990年11月12日 | レツィエ3世 |
レツィエ3世 | 1995年1月25日 | モショエショエ2世 | |
ハリーファ | カタール首長 | 1995年6月27日 | ハマド |
名 | 位 | 日付 | 後継者 |
---|---|---|---|
ジャン | ルクセンブルク大公 | 2000年10月7日 | アンリ |
シハヌーク | カンボジア国王 | 2004年10月7日 | シハモニ |
サアド | クウェート首長 | 2006年1月23日 | サバーハ |
シンゲ | ブータン国王 | 2006年12月15日 | ケサル |
ギャネンドラ | ネパール国王 | 2008年5月28日 | 君主制廃止 |
ベネディクト16世[注釈 6] | ローマ教皇 | 2013年2月28日 | フランシスコ |
ベアトリクス | オランダ女王 | 2013年4月30日 | ウィレム=アレクサンダー |
ハマド | カタール首長 | 2013年6月25日 | タミーム |
アルベール2世 | ベルギー国王 | 2013年7月21日 | フィリップ |
フアン・カルロス1世 | スペイン国王 | 2014年6月19日 | フェリペ6世 |
ムハンマド5世 | マレーシア国王 | 2019年1月6日 | アブドゥラ |
明仁 | 天皇[注釈 7] | 2019年4月30日 | 徳仁 |
マルグレーテ2世 | デンマーク女王 | 2024年1月14日 | フレゼリク10世 |
日本では皇極天皇が弟の孝徳天皇に皇位を譲った例を最古とする(なお、後小松天皇は南北朝合一によって2度譲位を受けている[注釈 8])。譲位した天皇には太上天皇(上皇)の尊号が奉られることが通例である。
平安時代以後の慣例として、譲位する天皇が譲位の宣命を宣布する儀式(譲国の儀)とその後に行われる継承者への剣璽を引き渡す儀式(剣璽渡御の儀)の2つを中心として儀式体系が組まれてきた。院政期に皇室の長たる地位が天皇から治天の君に移ると、天皇は早くに譲位し、制度・慣習により身動きのとれない天皇に比べて自由な立場の上皇(院)として政治に参与することが常態となった。また同時に何人もの上皇が存在することも多く、通常は即位および譲位時期の最も早い上皇(本院)が治天として朝廷を支配した。
大日本帝国憲法下では、1889年(明治22年)に制定された旧皇室典範と登極令で、皇位継承は天皇の崩御を前提としているため、存命中の退位はできないと解釈されていた。
現在の日本国憲法・皇室典範下においても、皇位継承は天皇の崩御を前提としており、長らく退位に関する規定は存在しなかった。 皇室典範で天皇の退位・譲位が認められていなかった理由として、
というものがあり、それらの懸念から退位を認めていないとされていた[注釈 9]。
しかし2016年(平成28年)8月8日に明仁(当時、天皇)の譲位の意向をにじませた「おことば」が発表され、その内容に国民も理解・共感をしていること[注釈 10]から、皇室典範第4条に対する特例法として『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が国会で成立し、2017年(平成29年)6月16日に公布、2019年(平成31年)4月30日に施行され、明仁はこの日限りで譲位、翌日皇太子徳仁親王が即位した。退位特例法の中で、第125代天皇である明仁に対し「法律の施行の日限り退位[注釈 11]し、ただちに上皇となる[注釈 12]」ことが明記された。また、「上皇」の新設に伴い美智子(当時、皇后)に対してもあらたに「上皇后」が設けられ、宮内庁に上皇職並びに上皇侍従長及び上皇侍従次長(特別職)を置く(附則第11条)ことも決定した[注釈 13]。
廃位や王朝の滅亡を除けば、中国史上の皇帝で自発的に退位した例は少ない(唐の玄宗、北宋の徽宗など)。最も新しい例は乾隆60年(1795年)に退位し太上皇となった清の乾隆帝で、「祖父康煕帝の在位年数を越えないため」という名目であった。ただし、当時84歳の乾隆帝はなお実権を握り続けたため二重権力状態となり、乾隆帝の老化もあって朝廷は大いに混乱した。
イギリスでは君主が健康であるかぎりは「譲位」という慣例がなく、君主に支障が生じた場合にも皇太子を摂政に据えて職務を代行させている[4]。
グレートブリテン王国成立以降の国王で退位したのは、エドワード8世のみである。1936年、離婚経験があるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するため、即位後1年を待たず退位した。「王冠を賭けた恋」として有名である。
(制定文) |
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:本年(注:1936 年)12月10日に発せられた国王勅語をもって現国王陛下(注:エドワード8世)は王位を放棄する不退転の決断をされた旨謹んで宣言し、この法律の附則に付した退位宣言書を作成され、それに効力がただちに付されるよう要望された。(中略) それゆえ、この上なく優れる国王陛下により、また、召集された現議会における聖職及び世俗の貴族並びに庶民の助言と承認により、さらにこれらの者の権限によって、以下のように法律を制定する。 |
- エドワード8世国王陛下の退位宣言への効力付与等のための法律(英国)
- 第1条 国王陛下の退位宣言の効力
- (1)1936年12月10日に現国王陛下(注:エドワード8世)により作成され、この法律の附則にも付した退位宣言書は、この法律に国王が裁可した後直ちにその効力を発する。これにより国王陛下は国王の職を解かれ、王位を失い、王位継承第一位の王族の一員により王位及びこれに付随する全ての権利、特権、権威が引き継がれる。
- (2)国王陛下、もしあれば同陛下の子及び同陛下の子の子孫は、同陛下の退位後は、王位継承に関していかなる権利も資格も利害も有せず、それゆえ1700年王位継承法第1条の規定はそのように解釈される。
- (3)1772年王室婚姻法の規定(注:婚姻に国王の許可が必要等の定め)は、国王陛下の退位後は、同陛下、もしあれば同陛下の子及び同陛下の子の子孫には適用されない。
- 第2条
- この法律は、1936年国王陛下退位宣言法として引用することができる。 (1936年12月11日法律第3号)(抄)
- 附則
- 私こと、グレートブリテン、アイルランドおよび英国海外領土の国王であり、インド皇帝であるエドワード8世は、私及び私の孫のために王位を放棄する私の不退転の決断と、この退位宣言書にただちに効力が付されることを望む私の気持ちをここに表明する。
- その証として、次に署名のある者の立会いの下、1936年12月10日、ここに名を記す。
- 国王・皇帝(Rex Imperator ) エドワード
- アルバート ヘンリー ジョージの立会いの下、フォート・ベルヴェデーレにて署名 [6]
エリザベス2世は2022年に96歳で崩御するまで在位を続け、退位議論は起きなかった。理由として、
ということが挙げられる[7]。
オランダでは19世紀においてすでに、ウィレム1世が退位しウィレム2世が王位を継承した例がある(さらにさかのぼると、ウィレム1世はオラニエ公の地位とオラニエ=ナッサウ家の家督をウィレム5世公から譲位されている)。
第二次世界大戦後の王位継承はすべて、国王の退位によるものである。
ブルボン家フアン・カルロス一世国王陛下の退位につき定める組織法(組織法3/2014) |
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;フアン・カルロス一世
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1975年の王政復古でスペイン国王に即位したフアン・カルロス1世が高齢(76歳)であること、皇太子が王位継承の準備ができており、退位は安定的な王位継承に資することを理由に、2014年に退位の文書に署名し退位を表明した[5]。スペイン議会も退位を可決したため、王太子フェリペが新国王に即位しフェリペ6世となった。
ベルギーでは、第二次世界大戦後に2度の退位が行われている。
スウェーデンでは、17世紀のクリスティーナ女王が1654年に自発的に退位し、従兄のカール10世が新国王となった。クリスティーナは退位後にプロテスタントからカトリックに改宗し、外遊をして当時の知識人と交流するなど教養人としての余生を送った。
18世紀のウルリカ・エレオノーラ女王も1720年に自発的に退位し、夫のフレドリク1世が代わって即位しているが、これは議会による国王権力への制限に対する不満によるものであった。
ルクセンブルクではオランダからの独立以降、第一次世界大戦直後に1度、第二次世界大戦後に2度の退位による大公位継承が行われている。
クウェートでは2006年1月22日付の閣議の文書にシェイク・サアド・アブダッラー・サーリム・サバーハ首長が 健康上の能力を失っているため退位[5]。
カタールではハマド首長が「我々の国家の歴史の新たなページをめくる時がきた。強力な潜在性と創造的思慮とともに、新しい世代が進んで責任を担おうとしている。」と宣言し退位した[5]。
ブータンではジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が「(2008年には初の総選挙が行われ、憲法が成立し、立憲君主制に移行するので)国王は、最高の能力を以て国に仕えるために、可能な限り多くの経験を積むことが必要かつ重要であるため」と表明し[5]、2006年に勅令を出して退位、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク王子が新国王に即位した。
カンボジアでは、2004年にノロドム・シハヌーク国王が退位し、ノロドム・シハモニ王子が新国王に即位した。
同一王朝内で退位が比較的平穏裏に行われた場合、退位した元君主やその親族は、旧来と同等の礼遇をもって接することが約されることが多い。東アジアでは太上皇、太上天皇といった尊号が奉られることが通常で、旧臣とのつながりや君主との父子関係を背景に権力を保持することもある。同一王朝内の退位でもクーデター的に退位に追い込まれた場合は、幽閉されたり尊号が奉られない場合もあり、死後に庶人扱いを受けることもある。簒奪を狙う権臣によって退位させられた場合は殺害されることもある。またローマ帝国の皇帝は五体満足であることが要件であったため、復位することがないようコンスタンティノス6世のように身体に損傷を与えられることもあった。
王朝交代を伴う退位では、魏が後漢に取って代わった際に後漢の献帝が山陽公として貴族となった例など、旧王朝の君主が新王朝の貴族となった例も複数あるが、反乱勢力に推戴されることを恐れて旧皇族や旧王族ともども皆殺しにされる例も少なくない(朝鮮の高麗王朝の王家一族、ロシアのロマノフ王朝のニコライ2世一家、など)。
スペイン王国、ヨルダン・ハシェミット王国、ブータン王国、ベルギー王国は、名誉的に退位前の国王の称号を使用し続けている。また、オランダ王国では国王即位前の称号(プリンス、プリンセス)を使用している。イギリス、カタール国では新たな称号が付与されている(ウィンザー公爵、国父)[5]。
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