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中国帝王一覧
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ここでは中国帝王一覧(ちゅうごくていおういちらん)について述べる。
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中国の上古時代の君主の号は「天皇」だった。中国で「皇帝」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。この一覧でも、基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「天子」、「王」である。そして、前漢以降は、「皇帝」が皇族や功臣を「王」に封じるようになった。このような「皇帝」によって「封ぜられた王」(諸侯王)は基本的にこの一覧には掲載していないが、五胡十六国時代・十国については掲載している。
また、歴史上、例えば「太祖」といった名は、複数の人物によって使われている。しかし、「天皇」、「皇帝」、「天子」、「王」、「天王」の称号について、例外もある。
- 世本によると、伏羲は「天皇」と称した。
- 史記によると、五帝および夏は「帝」を名乗っている。殷にも「帝」を名乗っている者がいる。
- 春秋時代の周は、「天子」とも称した。
- 春秋時代の諸侯は、楚・呉・越以外は「王」とは名乗っていない。越王勾践は「覇王」と呼ばれたことがある。
- 戦国時代の七雄以外には、周・宋・中山は「王」と名乗っている。
- 戦国時代の斉・秦は、短期間であるがそれぞれ「東帝」「西帝」と名乗っている。
- 秦の始皇帝は、「王」の称号を「皇帝」に変更した。
- 秦の子嬰は「皇帝」でなく、「王」である。
- 秦が滅んだあと、楚は、「王」の称号を「帝」に変更した。
- 西楚の項羽は、史記によると、「覇王」を名乗っている。
- 五胡十六国時代には「単于」を称してから、後で「天王」や「皇帝」に昇格するものがいた。
- 五胡十六国時代には「天王」を称する国が多いが、後で「皇帝」に昇格するものもいる。
- 五胡十六国時代・十国の中には、「王」と名乗っているものがままある。
- 唐の高宗は、「皇帝」の称号を「天皇」に変更した。
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古国時代
当節内の帝王は中国神話上の、伝説上の帝王である[注 1]。
太古(上古)時代
伏羲女媧時代
不明としてあるものは、部族名が記されていない、または一代限りで執政となったものである。
- 太昊 紀元前8350年?伏羲と同一とも。
- 伏羲 風姓。女媧と同じく創造神。別名は天皇、宓羲、庖犧、包犧、犧皇、皇羲など。女媧、嬟移、師嬟、太昊、昊嬟、少昊、嬑節、伏泰、羲暤、印槍が後継となったとされる。
- 大庭氏
- 新印
- 姯印
- 随象
- 柏皇氏
- 伏顕
- 可塑
- 郁莟
- 伏羲氏
- 象団
- 中央氏
- 象偉
- 伏案
- 曲秦
- 随秦
- 巻須氏※
- 晁安
- 栗陸氏
- 伏安
- 起望
- 河圭
- 伏羲氏
- 圭嬜
- 驪連氏
- 泰望
- 施公
- 団良
- 冠象
- 団伏
- 赫胥氏
- 伏義
- 娍義
- 肆櫔
- 帰紋
- 伏秧
- 伏羲氏
- 団皞
- 尊盧氏
- 秦槍
- 革池
- 槍蘭
- 三那
- 革蘭
- 祝融氏
- 赤禅
- 洛槍
- 附前
- 洛前
- 混沌氏
- 伏紀
- 随嬄
- 鵬爍
- 茜河
- 昊英氏
- 規辛
- 金鳥
- 掮師
- 伏羲氏
- 雪河
- 後有巣氏
- 汝信
- 羅秦
- 葛天氏
- 風浩
- 峙龍
- 達河
- 陰康氏
- 荷曲
- 達耳
- 媒蘭
- 立路
- 脩魚氏
- 因康
- 朱襄氏
- 墻爍
- 澤治
- 雷澤氏
- 渭茂
- 無懐氏
- 蒼芒
- 蒼曲
- 伏羲氏
- 風和
- 節氏
- 太河
- 太耀
- 節芒
炎帝神農氏
黄帝有熊氏
- 軒轅氏 黄帝 姫伯荼[1](紀元前2510年? - 紀元前2498年?)
- 帝休 姫釐(紀元前2498年? - 紀元前2464年?)
- 帝魁 姫魁(紀元前2464年? - 紀元前2448年?)
- 金天氏 少昊 姫玄囂(紀元前2448年? - 紀元前2403年?)
- 帝裏 姫倍伐(紀元前2403年? - 紀元前2364年?)
- 高陽氏 帝顓頊 姫顓頊[2](紀元前2364年? - 紀元前2294年?)
- 帝孺 姫貫兪(紀元前2294年? - 紀元前2286年?)
- 高辛氏 帝嚳 姫夋[3](紀元前2286年? - 紀元前2216年?)
- 青陽氏 帝摯 姫摯(紀元前2216年? - 紀元前2213年?)
- 陶唐氏 帝堯 伊祁放勲(紀元前2213年? - 紀元前2115年?)→丹朱
- 有虞氏 帝舜 姚重華(紀元前2112年? - 紀元前2073年?)→商均
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夏
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殷
周

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春秋戦国時代
要約
視点
→詳細は「周朝諸侯国君主一覧」を参照
魯
斉
姜斉
田斉
晋
楚
宋
衛
陳
蔡
曹
鄭
燕
呉
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越
許
韓
魏
趙
中山国
秦(始皇帝以前)
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秦(始皇帝以降)
楚
義帝は紀元前209年 - 紀元前207年は懐王、元日に帝に推戴される。
前漢
なお、劉嬰は正確には帝位には即かず、上記の在位期間も皇太子としての在位であったが、一般には「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねている。
南越国
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新
漢 (緑林軍)
漢 (赤眉軍)
成家
梁
後漢
仲家
三国時代
魏
蜀漢
- 219年 - 221年、劉備は、後漢の「漢中王」を自称した。
- 「先主」・「後主」は魏を正統とする『三国志』が蜀を正規の皇帝と認めない立場から付けた呼称である。
- 「懐帝」は、漢を自称した劉淵が名づけた名称。晋においては「安楽思公」。
呉
燕
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晋
西晋
東晋
楚
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五胡十六国時代
前涼
前趙
- 隠帝の時一旦滅んだが劉曜が再び建国し、国号を「漢」から「趙」に変えた。
前燕
成漢
後趙
冉魏
前秦
西涼
北燕
北涼
夏
後燕
西燕
冉魏
南涼
南燕
後涼
後秦
翟魏
拓跋部
代
南朝
- 宋
- 斉
- 梁
- 後梁
- 陳
北朝
北魏
- 拓跋珪は、386年 - 398年、代王を自称した。
- 景穆太子は、文成帝によって恭宗景穆帝と追号された。
- 元勰は、孝荘帝によって粛祖文穆帝と追号された。
- 元劭は、孝荘帝によって孝宣帝と追号された。
- 元懐は、孝武帝によって孝宗武穆帝と追号された。
斉
斉
東魏
北斉
西魏・北周
隋

- 楊忠は、楊堅によって太祖武元帝と追号された。
許
鄭
夏
定楊
梁
秦
涼
梁
呉
楚
宋
楚
唐

- 李熙は、674年高宗によって献祖宣帝と追号された。
- 李天錫は、674年高宗によって懿祖光帝と追号された。
- 李虎は、618年高祖によって太祖景帝と追号された。
- 李昞は、618年高祖によって世祖元帝と追号された。
- 李弘は、高宗によって義宗孝敬帝と追号された。
- 690年 - 705年、武則天により国号を周とされる。
- 譙王李重福は、710年に皇帝を称した。
- 李憲は、玄宗によって譲帝と追号された。
- 李琮は、粛宗によって奉天帝と追号された。
- 李承宏は、763年に長安を一時占領した吐蕃に帝位につけられた。
- 李倓は、代宗によって承天帝と追号された。
- 襄王李熅は、886年に帝位につけられた。
- 李裕は、900年-901年に帝位についていた。
周
燕
秦(漢)
楚
斉
五代
後梁
- 907年に唐の哀帝に迫って譲位をさせ、帝位についた[4]。912年に領内の節度使の反乱を鎮定したが、これに介入した晋(後唐の前身)軍に敗れ、病を得たため仮父子の関係にあった朱友文を後継者に指名しようとした[4]。これを不満とした実子朱友珪により朱友文とともに殺害された[4]。
- 912年6月に太祖朱全忠を殺害し即位したが、913年2月に弟の朱友貞により殺害された[6]。
後唐
後晋
後漢
後周
十国
要約
視点
呉
呉越
荊南
前蜀
南漢
楚
後蜀
南唐
閩
北漢
桀燕
岐
北宋
遼
西遼
西夏
→「西夏の君主一覧」を参照
南宋
金
→「金朝の君主一覧」を参照
楚
斉
大元

- イェスゲイは、世祖によって、烈祖神元皇帝と追号された。
- チンギス・カンは、世祖によって、太祖法天啓運聖武皇帝と追号された。
- オゴタイは、世祖によって、太宗英文皇帝と追号された。
- グユクは、世祖によって、定宗簡平皇帝と追号された。
- モンケは、世祖によって、憲宗桓粛皇帝と追号された。
- 「順皇帝」は明により贈られた諡号
北元
宋
天完
陳漢
張呉
夏
大明
→「明朝の君主一覧」を参照
南明
順
西
後金

大清

- 成宗ドルゴン、愛新覚羅多爾袞は1650年順治帝によって成宗義帝と追号された。
- 保慶帝愛新覚羅溥儁は、1899年に帝位につけられた。
- 愛新覚羅溥儀は、1917年7月1日-1917年7月12日、張勲復辟で一時復位した。
呉周
太平天国
中華帝国
満洲国
脚注
参考文献
関連項目
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