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アンドレ・イーシアー
アメリカ合衆国の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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アンドレ・エバレット・イーシアー(Andre Everett Ethier, 1982年4月10日 - )は、アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックス出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。
実弟も元プロ野球選手で、2010年のMLBドラフト32巡目でロサンゼルス・ドジャースに入団したデボン・イーシアー。
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経歴
要約
視点
2001年のMLBドラフト37巡目(全体1121位)でオークランド・アスレチックスから指名されたが、契約には至らなかった。
2003年のMLBドラフト2巡目(全体62位)で再びアスレチックスから指名され、プロ入り。
2005年オフに派遣されたアリゾナ・フォールリーグでは献身的プレーとリーダーシップを評価されてステンソン賞を受賞した。
その後、ミルトン・ブラッドリー、アントニオ・ペレスとのトレードでロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。
2006年は開幕を傘下のAAA級ラスベガス・フィフティワンズで迎えたが、5月2日にメジャーデビューを果たした。デビュー2戦目となる翌3日には本塁打を記録。5月19日には5打数5安打を記録した。ルーキーイヤーは126試合に出場し、持ち前のミート力を生かしてシーズン打率.308、11本塁打、55打点を記録した。新人王の投票で5位に入った。
2007年は、153試合に出場し、初の規定打席に到達。打率は.284と落としたものの、13本塁打、64打点を記録した。2008年は打率.305、20本塁打、77打点と成績を伸ばした。
2009年はチームの主軸を担い、フル出場に近い160試合に出場。MLBタイ記録となるシーズン4本のサヨナラ本塁打を含む31本塁打、6本のサヨナラ安打を記録した[2]。同時に100打点超えも果たし、シルバースラッガー賞を初受賞した。
2010年はオールスターに初選出された。シーズンでは、30本塁打・100打点は逃したものの、前年よりも高い打率.292をマークし、3年連続で20本以上のホームランを記録した。
2011年、2年連続での打率.292を記録。しかし、本塁打と打点は更に減少し、2009年と比べてそれぞれ20本塁打減、44打点減。前年と比べても12本塁打減、20打点減となった。一方で守備面では無失策に抑え、自身初のゴールドグラブ賞に選出された。
2012年、149試合に出場し打率.284、20本塁打、89打点を記録した。本塁打は2年ぶりに20本を超え、打点も自己2位の数値だった。
2013年、142試合の出場で打率.272、12本塁打、52打点を記録した。打率は低下したが、四球が4年ぶりに60を超えると出塁率も2年ぶりに.360を超えた。ただ、打撃三部門(打率、本塁打、打点)については、打点が自己最少、打率も自己最低(2009年が.2718、2013年は.2717)、本塁打は自己3番目に少なかった。これはそれまで中軸を任されていたが、この年はヤシエル・プイグ、エイドリアン・ゴンザレス、ハンリー・ラミレスなどの活躍で、2番または下位打線を打つことが増え、長打狙いから出塁重視の打撃に変わった。そのため、長打の減少は、打撃不振ではなく意図的だった結果の数字の低下であり、自身のすべき役割は果たしている。守備ではそれまで右翼手だったが、右翼と中堅手の併用となった。
2014年、外野陣がカール・クロフォード、マット・ケンプ、プイグとなり、4番手の外野手となった。そのため、メジャー1年目の2006年以来となる規定打席未満に終わり、また打撃三部門ではいずれも自己ワーストの成績に終わった。
2015年、142試合に出場したが、2年連続で規定打席に届かなかった。しかし、打率.294、出塁率.366と復調した。
2016年はスプリングトレーニングで自打球を当てて右脛骨骨折で終盤の16試合に代打起用されるにとどまり[3]、2017年は同じくスプリングトレーニングで椎間板ヘルニアを発症して22試合の出場にとどまると[4]、オフに250万ドルの違約金で2018年における契約オプションを破棄されてFAとなった[5]。
2018年は無所属で開幕した。7月25日に現役引退が発表され[6]、8月3日にはドジャー・スタジアムで引退セレモニーが行われた[7]。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
- 太字年はゴールドグラブ賞受賞
表彰
- シルバースラッガー賞:1回(2009年)
- ゴールドグラブ賞:1回(2011年)
記録
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脚注
関連項目
外部リンク
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