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アート・ハウ

アメリカの野球選手、監督 (1946-) ウィキペディアから

アート・ハウ
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アーサー・ヘンリー・ハウ・ジュニアArthur Henry Howe Jr. , 1946年12月15日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ出身の元プロ野球選手内野手。主に二塁手)。右投右打。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

ワイオミング大学卒業後の1971年、地元ピッツバーグ・パイレーツへテスト生として24歳でプロ入り。それまではプログラマとして生計を立てていたという[1]

1974年にメジャーデビューし、ヒューストン・アストロズ移籍後の1977年より出場機会が大幅に増える。以後1970年代後半から1980年代前半までアストロズのレギュラー内野手に定着。セントルイス・カージナルス在籍時の1985年開幕直後に引退を表明。

引退後は、1986年テキサス・レンジャーズでコーチを務め、1989年にアストロズ監督に就任も最初の3年は負け越す。1992年と翌1993年には勝率5割以上と健闘するが、1993年限りで解任されてしまう(後任はテリー・コリンズ)。その後はドミニカ・ウィンターリーグの監督、ロサンゼルス・ドジャースのスカウト、コロラド・ロッキーズの打撃コーチを歴任する。

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ニューヨーク・メッツ時代
(2004年8月7日)

1996年トニー・ラルーサ監督の後釜としてオークランド・アスレチックスの監督に就任するも、ここでもアストロズ監督時代同様最初の3年は負け越してしまう。しかし、ジェイソン・ジアンビの成長や若手の台頭などで戦力が整った1999年には、ポストシーズン進出こそ逃すも87勝を挙げ、最下位という下馬評を覆す躍進を演じた。翌2000年からは3年連続ポストシーズンに導き、2002年限りでアスレチックス監督を退任(後任はケン・モッカ)。翌2003年から2年間はニューヨーク・メッツの監督、2007年から2年間はレンジャーズのベンチコーチを務めた。

2013年にはWBC中国代表コーチを務めた[2]

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監督としての特徴・人物

若手選手を辛抱強く使い続けることに定評があり、アストロズではクレイグ・ビジオジェフ・バグウェル、アスレチックスではエリック・チャベスミゲル・テハダの大成に一役買うなど過渡期のチームで手腕を発揮する監督と言える。逆に早期で結果を求められる土地柄のニューヨークを本拠地とするメッツでは大きな功績を残せず、「彼の気楽なやり方はニューヨークではなじまない」と失格の烙印を押された[3]

温厚で笑顔を絶やさないため選手からの人望が厚く、アスレチックス監督時代に解任の噂が出た際には、選手数名がビリー・ビーンGMに引き留めを直訴したという逸話がある。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 14 (1974年 - 1975年)
  • 18 (1976年 - 1982年、1989年 - 1993年、1996年 - 2004年)
  • 7 (1984年 - 1985年)
  • 10 (1986年 - 1987年)
  • 41 (1995年)
  • 11 (2007年 - 2008年)

脚注

関連項目

外部リンク

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