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エニックス
かつて存在した日本のゲームメーカー、出版社 ウィキペディアから
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株式会社エニックス(英: ENIX Corporation)は、かつて存在した日本のゲームメーカー、出版社。2003年(平成15年)4月1日に同業のスクウェアと合併し、スクウェア・エニックス(法人としては現在のスクウェア・エニックス・ホールディングス)となった。本稿ではこの旧エニックスについて解説する。
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概要
1975年9月22日、福嶋康博により公団住宅の情報誌を発行する出版社「営団社募集サービスセンター」として創業[1]。紆余曲折を経て、1982年に子会社としてエニックスを設立し、パソコンソフト業界に参入。大々的なプログラムコンテストを開き、翌1983年に一挙に13本のソフトを発売した事で一躍知名度を上げる。
1984年10月に任天堂と提携し、ファミリーコンピュータ用のソフトを提供することが決定[2]。1985年7月に家庭用ゲーム機市場に参入。1988年に発売した『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』は社会現象とも呼ばれるほどのヒットを記録、エニックスはゲームメーカーとしての地位を確固たるものとした。社内にはドラクエシリーズ専門の部署である「ドラクエ課」が存在し現在はスクウェア・エニックス第9開発事業部となっている。
1990年、収益の安定を図るために出版ビジネスに進出。翌1991年に創刊した『月刊少年ガンガン』は、15年近く月刊漫画雑誌の創刊で成功といえるものがないという逆風の中、一定の成功を収め、その後、数多くの派生誌を生んだ。
かつては映像ソフト製作とゲームソングやアニメソングの制作も行っていた。自社レーベル『PLENTY SAMAN』(プレンティーサマン)として発足、販売網はパイオニアLDCに委託。スクウェア・エニックスに合併後、映像ソフト製作とアニメソング事業を撤退するが、ゲームソング事業は継続中である。
社名の「エニックス」は、世界初の汎用デジタルコンピュータと言われる「ENIAC(エニアック)」と不死鳥「PHOENIX(フェニックス)」をあわせた造語である。ドラクエシリーズのヒットにより日本有数のゲーム会社とも言われたが、エニックス自体は開発機能を持たないゲームパブリッシャーである。前述のプログラムコンテスト以降、主にコンテストで新人を発掘するという手法が取られ、定期的にゲームのコンテストが開かれていた。この路線は出版ビジネスに進出した際にも踏襲され、多くの新人を発掘している。合併してスクウェア・エニックスになった現在でも、旧エニックス系の流れを汲む作品の開発は外部へ委託されている。
2002年11月26日にスクウェアとの合併契約書が締結されたが、2003年1月10日にスクウェア筆頭株主の宮本雅史が合併比率に不満を持っているとの報道がなされ[3]、1月14日に合併比率がエニックス1:スクウェア0.81からエニックス1:スクウェア0.85に変更された[4]。
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沿革
- 1975年9月 - 株式会社営団社募集サービスセンター設立。
- 1980年2月 - 営団社募集サービスセンターの100%出資により、東京都港区虎ノ門に株式会社営団社不動産を設立。
- 1981年8月 - 株式会社営団社不動産の商号を株式会社営団社システムに変更。新宿区西新宿に移転。
- 1982年8月 - 株式会社営団社システムの商号を株式会社エニックスに変更。
- 1983年10月 - 小西六写真工業(現・コニカミノルタ)との合弁により、東京都北区に株式会社小西六エニックスを設立。
- 1986年5月 - ファミリーコンピュータ用ロールプレイングゲーム(RPG)『ドラゴンクエスト』発売。
- 1987年10月 - 株式会社小西六エニックスの商号をコニカエニックス株式会社に変更。
- 1988年3月 - 出版物、キャラクター商品の販売子会社としてエニックスプロダクツ株式会社設立。
- 1989年1月 - コニカエニックスを100%子会社化。
- 1989年4月 - エニックス、コニカエニックス、エニックスプロダクツを営団社募集サービスセンターに吸収合併し、商号を株式会社エニックスに変更。営団社募集サービスセンターは休眠状態であり、旧エニックスが実質的な存続会社となる。神奈川県川崎市にエニックス研究所を設置(2000年10月 株式会社ビーエムエフとして法人化)。
- 1991年2月 - 社団法人日本証券業協会に店頭登録銘柄として登録(店頭公開)。
- 1991年3月 - 『月刊少年ガンガン』創刊。
- 1991年10月 - 株式会社デジタルエンタテインメントアカデミー設立。「エニックスゲームスクール」の運営を開始。
- 1996年8月 - 本社を新宿区西新宿から渋谷区代々木へ移転
- 1999年8月 - 東京証券取引所 一部上場。
- 1999年11月 - ENIX AMERICA INC. 設立。
- 2001年6月 - エニックスお家騒動発生。
- 2002年9月 - ブロードバンドコンテンツの制作、配信を目的に早稲田大学と共同で株式会社スポーツビービー設立。
- 2003年4月1日 - 同業の株式会社スクウェアと「対等の精神に基づき」合併。当社を存続会社とし、代表をスクウェア代表の和田洋一へと交代、新商号は株式会社スクウェア・エニックスとなった[7]。
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優秀なクリエイターの発掘
要約
視点
ゲーム・ホビープログラムコンテスト
1982年に第1回を開催(同年12月20日締め切り)。当時の同様のコンテストは賞金は30万前後が普通のところ賞金総額300万円(最優秀賞100万円)というのが最大の売りであり、後のゲーム界を担う人材を発掘した。300本近くの応募作の中から、13本がパソコンソフトとして実際に販売された。天才マイコン少年として一部で知られていた中村光一をスターダムに押し上げ、堀井雄二との出会いのきっかけとなったことから、『ドラゴンクエスト』シリーズ開発史の最初の舞台として描かれることが多い。堀井はコンテストの紹介記事を「週刊少年ジャンプ」に執筆したライターという立場であったにもかかわらず、プログラミングを独学して勝手に応募してきたという[8]。
- 最優秀プログラム賞「森田のバトルフィールド/森田和郎」
- 優秀プログラム賞「ドアドア/中村光一」
- 優秀プログラム賞「マリちゃん危機一髪/槇村ただし(後のどろんぱ)」
- 入選プログラム賞(以下順不同)
- 「宇宙の戦士/岡田良行」
- 「D・I・Sエアポート/藤原誠司」
- 「星子のアドベンチャー/浅沼利行」
- 「地底のモンスター/長谷川修」
- 「ポーカーエキストラ/川口真弘」
- 「ナポレオン/島田弘明」
- 「ピラニア君の一週間/白井篤」
- 「暴走オリエント急行/長瀬敏之」
- 「ラブマッチテニス/堀井雄二」
- 「バクテリアエスケープ/橋下友茂」
エニックス マンガ大賞
年2回開催される漫画家募集企画。1995年にエニックス21世紀マンガ大賞としてスタート(1995 - 99年:全9回)し、2000年に新世紀マンガ大賞と改名(2000 - 02年:全6回)。2003年からエニックスマンガ大賞となり、スクウェアとの合併に伴い2004年の第3回よりスクウェア・エニックスマンガ大賞と改名され現在に至る。
エニックス アニメ企画大賞
1998年に行われた、アニメーション関連のクリエイター募集企画[9]。アニメ企画部門、アニメ声優部門、アニメシナリオ部門、メカデザイン部門の4部門があり、出崎統、野沢雅子、藤川桂介の3名が審査を行った。
1998年12月31日に応募が締め切られ、1999年3月12日付の朝日新聞および『月刊少年ガンガン』ほかエニックス刊行各誌で発表された。声優部門の受賞者には野川さくら、今井麻美、早水リサ、雛野まよ(現・榊原ゆい)がいる。
エニックスお家騒動
→詳細は「エニックスお家騒動」を参照
関連会社
- 株式会社デジタルエンタテインメントアカデミー (東京都新宿区)
- ENIX AMERICA INC. (ワシントン州シアトル)
- 2003年清算
- コミュニティーエンジン株式会社 (東京都渋谷区)
- 株式会社ビーエムエフ (神奈川県川崎市)
- 株式会社マッグガーデン (東京都千代田区)
- 株式会社スポーツビービー (東京都渋谷区) - 2004年清算
作品一覧
パーソナルコンピュータ用ソフト
コンシューマーゲーム機用ソフト
周辺機器
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漫画雑誌
- 1991年3月 - 月刊少年ガンガン
- 1993年3月 - ガンガンファンタジー (1994年3月に月刊Gファンタジーに改題)
- 1994年3月 - 月刊少年ギャグ王 (1999年3月休刊)
- 2001年1月 - 月刊ガンガンWING (2009年2月休刊)・月刊ステンシル (2003年7月休刊)
主な提供番組
いずれも過去
脚注
外部リンク
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